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イナムドゥチに秘められた歴史ロマン

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さて、イノシシ年が始まって1週間が経ちました。

 

今年に入るや、熊に代わってイノシシが町中に出没し出したようで、全国各地からニュースが伝わってきています。

 

わが沖縄県には、リュウキュウイノシシが在来種として棲息しています。
戦前は、「貝塚人が持ち込んだ原始的ブタが野生化したもの」といわれていたんですが、港川人の発見者・大山盛保さんが1万8000年前のイノシシの化石を発見したことで、イノシシ事情がだいぶ変わってきました。

 

大山さんが発見した化石のイノシシが、貝塚時代の遺跡からも大量発見されているイノシシや、現在のリュウキュウイノシシの先祖かどうかはまだ、明らかになっていないようです。

 

ところで、ガチマヤーの私としまして、以前から不思議に思っていたイノシシ料理があります。

 

イナムドゥチ……です。

 

いうまでもなく、味噌汁の一種ですね。豚三枚肉、シイタケ、カステラカマボコ、コンニャク、揚げ豆腐など5~6種の材料を短冊切りにして、甘味噌でとろりと煮込んだ味噌汁です。

 

お正月には欠かせない料理といわれていますが、地域差があるようで、首里や那覇の一部の出身者のご家庭に限られている観があるのではないかと推察しているのですが、悦子さん、いかがですか。

 

私が不思議だなぁ……と思うのは、この料理のルーツです。

 

料理研究家の新島正子先生は、『沖縄大百科事典』のなかで、こう記しています。

 

「昔はイノシシの肉を使っていたのが、のちに豚肉を使うようになり、イノシシもどき……が訛って、イナムドゥチ……と名付けられたという。似た料理に、シカムドゥチ……がある。こちらは、すまし汁仕立ての汁物で、シカ肉の代わりに豚肉が使われるようになり、シカムドゥチ……と名づけられたという」

 

ということはですね、悦子さん(ラジオ沖縄・屋良悦子アナウンサー)。

 

冊封使が中国から豚を連れてくる前の、古き時代の食文化を彷彿とさせていることになりませんか、イナムドゥチは!

 

いにしえの首里や那覇の一部の皆さんは、イノシシを召し上がっていた。

 

しかも、ヤマトの「ボタン鍋」と同じように、濃厚な味噌汁を食していた。どうして共通しているんでしょうか。

 

この食べ方は、いつ頃、どんな人々によってもたらされたのでしょう。

 

イナムドゥチは、歴史ロマンも、隠し味になっているんじゃないかなぁ。

 

*07年1月9日のラジオ沖縄「フレッシュモーニング」で放送予定。



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大家が記す「沖縄そば」のルーツ

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さて、今日(06年10月17日)は「沖縄そば」の日ですね。

 

ウチナーンチュは、物心がついたときには食べ慣れているわけですから、沖縄そばの「初体験」の記憶はないでしょう。

 

ところが、ヤマトンチューはたいてい、衝撃的な「初体験」をしています。ヤマトでは、蕎麦・うどん・ラーメン・素麺あたりがスタンダードの麺。ところが、それ以外にこのような麺文化があったわけですから!

 

私も、日本そばの蕎麦とはほど遠く、麺はラーメンのように小麦粉の風味まるだしで、スープはカツオ出汁がベースの沖縄そばを初めて食べたとき、「へ~え」という言葉がまず、飛び出したものでした。もう、25年以上前のエピソードになってしまいますが……。

 

特にスープは、お隣の九州が誇る豚骨ラーメンとは対照的ですよね。豚骨も鶏ガラも、沖縄そばは、隠し味的な使い方をしているのですから。

 

ところで、リエさん(ラジオ沖縄の新垣リエアナウンサー)。沖縄そばのルーツについて、何か御存知ですか?

 

ここ数年、中国の影響を受けた琉球宮廷料理のなかにそれがある……という説が、麺メーカーのコマーシャルで紹介されていますね。実際にどうなのか、大いに関心があります。

 

今朝は、『沖縄事始め・世相史事典』(月刊沖縄社)をひもといて、そのルーツに少し、迫ってみることにしましょう。

 

同事典ではまず、沖縄歴史研究の大家である東恩納寛惇氏のエッセイ集『童景集』の一文を「明治40年(1907年)」の項に掲載しています。

 

大家の文章を、そのまま読んでみましょう(下記の掲載文は要約)。

 

 

沖縄のそば屋の始めは、鹿児島人の森という人がやっていた「森そば屋」である。始めた時期ははっきりしないが、明治40年頃にはすでに営業していたようである。
沖縄のそばは、豚の骨から煮出した出し汁を使った、ラーメンの兄弟のようなもので、それをいつ、なぜ「そば」というようになったか、不明だが、首里の比嘉某が、中国から習って広めたものともいわれる。戦前は支那そばといわれたものである。
「森そば屋」と並んで有名だったのが、辻の名物だった「ウシンマーそば」。かつて辻の遊女だったウシンマーが前之毛で始めたもので、氾濫していた小汚い支那そば屋と違って、適度の油を加味したものに、小さく刻んだカマボコを乗せ、ちょっぴり黒い胡椒のようなヒーパーチを浮かした辛味が大評判で、大量販売せず、夜の8時前後には閉店する営業ぶりが客の心理をあおった。

 

 

東恩納先生は、沖縄そばのルーツを、鹿児島の人が開いた「森そば屋」と断言なさっていますね。
辻の名物だったという「ウシンマーそば」は、現在の八重山そばを彷彿とさせます。ヒーパーチを使っているのですから。

 

その後の沖縄そば事情について『沖縄事始め・世相史事典』は、「井筒屋」の新里有一郎氏と「万人屋」の仲里誠吉氏の語ったところから、次のようにまとめています(要約)。

 

 

大正7~8年頃には「森そば屋」が店を閉め、大正9年に新里有一郎が波之上通りに「井筒屋」を始めた頃から、前之毛に「ゆたか屋」「うしんまあ屋」、石門通りに「三角屋」、市役所前に「万人屋」などができて繁盛した。大正初期までは、そば1杯5銭。第一次世界大戦に入り、物価が上がって10銭。6~7分入りの半そばが5銭だった。
戦後も、牧志通り国際劇場横の「井筒屋」、那覇市役所前の「万人屋」などが、1杯10セント程度で大繁盛した。

 

 

ここに登場する「ゆたか屋」は、沖縄そばのスープを透明にした初めてのお店だったという話を、どこかで読んだか、聞いた覚えがあります。
醤油ベースだった汁を塩味に変えただけだったのですが、人気が爆発したとか。店主は「白い醤油を使っている」と吹聴し、それを聞いたライバル店は、ヤマトまで白い醤油を慌てて探しに行ったという伝説があるそうです。

 

ラジオ沖縄の生き字引、『暁でーびる』の吉田安盛さん、盛和子さんにもきのう、昔の沖縄そば屋について、ちょっと話をうかがいました。

 

すると、戦前、那覇市の西町だったか東町に、「三ツ目そば」という店があって人気だったそうです。なぜ、三ツ目……などという店名なのかといいますと、夫婦で営業していたのですが、ご主人が独眼だったからだそうです。

 

それから、戦後は、壺屋に「びっくりそば」という人気店があったとか。山盛りのそばで、「3杯食べればお代はタダ!」でしたが、完食する人はきわめて希だったそうです。

 

「森そば屋」にしろ「ウシンマーそば」にしろ「ゆたか屋」にしろ、そして、いまの「井筒屋」「万人屋」「三角屋」「三ツ目そば」「びっくりそば」にしろ、どんな味だったのでしょうね、食べてみたい!

 

復元する試みを、どなたか実現してくれないものでしょうか。

 

……ところで、リエさん。リエさんは、どちらのお店の贔屓ですか?

 

新婚さんだから、ご主人のそば?

 

ごちそうさまでした。

 

*06年10月17日のラジオ沖縄「フレッシュモーニング」で放送。



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「世界のウチナーンチュ大会」で語られたか

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さて、「世界のウチナーンチュ大会」が閉幕しましたね。

 

先週土曜日の「いいことありそうウイークエンド」(ラジオ沖縄)を聞いていましたら、増田ゆみかさんが、会場周辺で県系人に間違えられて英語で話しかけられたというエピソードを披露していましたが、たしかにこの4日間、会場周辺を中心に街が華やぎましたね。国際色が豊かになった……といいましょうか。

 

先日、私がときどき出掛ける居酒屋でも、白人の方も交じっている県系人の皆さんが、カラカラーから泡盛を注いで沖縄料理を楽しんでいました。

 

沖縄ハーバービューホテルでも、先々週末でしたか、ダンディな老紳士と、やはりおしゃれな奥様が食事をなさっている光景を見掛けました。その雰囲気がどこか垢抜けていたので様子をうかがっていましたら、聞こえてきたおしゃべりから、「世界のウチナーンチュ大会」のために来沖なさったことが分かりました。

 

連日、関連イベントの報道がされてきましたね。シンポジウムをめぐる記事は、「県系人との交流を一過性のものにするのではなく、県系人ネットワークを拡充していこう」という内容のトーンでした。

 

たしかに2世から3世、3世から4世と代が替わっていきますと、ルーツへのこだわりがどうしても薄くなってしまう傾向があるでしょう。早めに、絆を強く結び直したほうがいいかもしれません。

 

そんな、代替わりの時期に、沖縄で暮らしている側……特に、沖縄に住む若い世代が、あらためてじっくり見直した方がよい数字があると私は思います。

 

〈移民送金〉という言葉、リエさん、聞いたことがありますか?

 

戦前、沖縄から世界へ移り住んでいった皆さんが、海外から沖縄へ送金してきたお金のことです。

 

この〈移民送金〉のデータが『沖縄県史』に載っています。大正元年から昭和15年(1921~40年)までの沖縄の経済を支えてきた、各年の「収入」データです。

 

一目瞭然で、必ずや瞠目してしまいます。

 

例えば、二・二六事件があった昭和11年(1936年)の県税収入は74万3681円でした。一方、〈移民送金〉は241万4463円でした。(いうまでもなく、円の価値は現在と全く異なります)

 

つまり、県税収入に比べて〈移民送金〉は、およそ3倍も多かったのです。3倍ですよ!

 

表現を替えますと、戦前の沖縄経済は、〈移民送金〉のお陰でかろうじて破綻を免れていたのです。

 

海外移民をなさった、特に1世の皆さんは、慣れぬ異国であらゆる困難と闘いながら不自由な暮らしに耐え、それでも沖縄にいる家族のために一生懸命に働いて送金してくれたのです。

 

〈移民送金〉のデータをみつめますと、1世の皆さんのご苦労がにじみ出てきます。

 

今朝(06年10月16日)の『琉球新報』社会面トップ記事は「しわくちゃの手で故郷の天を仰ぎ、踊るカチャーシー。ウチナーラテンのリズムに感極まった1世は、涙目で若者の手を取り、踊り出した」という書き出しでリードが始まっていますが、こちらこそ、「感極ま」ります。移民なさった皆さんは、沖縄の大恩人なのですから。

 

リスナーの皆さん。「世界のウチナーンチュ大会」では、帰沖した方々に、優しくして差し上げられましたでしょうか?

 

*06年10月16日のラジオ沖縄「フレッシュモーニング」で放送。



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