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沖縄県の人口増加が「2050年頃まで」だとして

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総務省は一昨日(05年7月27日)、住民基本台帳に基づく今年3月31日現在の全国の人口動態を発表しました。

 

総人口は、1億2683万9397人。前年より4万5231人増えましたが、過去最低の増加数です。人口増加率も、0・1%台を初めて割り込み、0・04 %でした。

 

増加率がかろうじてプラスだったのは、女性の人口が微増したため。男性の人口は、初めて減少に転じました。

 

『日本史』にも将来、記述されることになるでしょうが、増加傾向にあった日本の人口は、来年(2006年)ピークを迎え、その後は、減少傾向になる見通しです。

 

日本の人口は、1億3000万人の大台を前に、Uターンするわけです。

 

沖縄県の人口についてはどうでしょう。

 

一昨日の発表では、05年3月31日現在で、137万2388人。

 

増加率は0・75%で、47都道府県でトップでした。

 

地元マスコミは、この全国一番を、沖縄県の元気を示している……と誇らしげに報道しています。

 

沖縄県の人口増加率が高い理由は、実は、歴史的な事情が他府県と異なるからです。

 

米軍統治が戦後27年間も続いていた沖縄県は、1972年に祖国復帰を果たすと、人口増加が加速しました。

 

1940年 59万人
1945年 沖縄戦
1950年 69万9000人
1960年 88万3000人
1970年 94万5000人
1972年 本土復帰
1980年 110万6000人

 

他府県で人口増加にブレーキが掛かり始めても、祖国復帰した沖縄県では、アクセルを踏んだままで増加傾向が続いたのです。

 

現在、その赤ちゃんたちが大人になって子どもを産んでいるので、出生率が比較的高い……わけです。

 

(ちなみに、琉球王国の時代は、1729年に記された『雍正七年己酉札御改表』によりますと、17万3969人。その20年後に、三司官・蔡温が記したエッセー『独物語』には、20万人に達した気配を感じさせる一文があります。琉球王国は、現在の6分の1以下の人口だったのです)

 

さて……。

 

全国一の増加率を誇る沖縄県の人口増加は、いつまで続くのでしょうか。

 

1983年に、2000年の人口は131万人……と予想し、見事にピタリと的中させているレポートがあります。

 

『沖縄産業史 自立経済の道を求めて』(古波津清昇著・文教図書刊)です。

 

同著では、「100年後の人口予想」をしています。

 

推計の基礎資料にしているのは、有効出生率の動向、年齢別人口構成変化、年平均伸び率など。

 

それによりますと、「沖縄の人口は、2050年頃150万人とピークに達し、以後、安定に向かうものと考えられる」。

 

2000年 131万人
2020年 140万人
2040年 149万人
2060年 150万人
2080年 149万人

 

日本全体では来年、人口のピークを迎える……と前述しました。

 

上記の推計通りになれば、向こう半世紀ほどの間、沖縄県は、全国平均が減少傾向のなかで、人口増加を続けることになります。

 

ところで……。

 

このような人口推計を踏まえ、県民の一人として腕組みをしてしまうのは、150万人もの県民がいかに生活していくか……です。

 

「完全失業率が全国平均の約2倍」「県民所得が全国平均の7割で東京都の半分以下」という年月が、延々と続いているという事情があります。

 

県は、「観光立県」「IT立県」を宣言し、しかも、わりと最近になっていずれも宣言したわけですが、150万人なりの人口予想を踏まえた「国家百年の大計」に基づいているのでしょうか。

 

ご承知の通り、沖縄では、第3次産業の偏りが嘆かれるようになって久しいです。

 

第3次産業の偏重が付加価値を低くしている……という弊害を説く識者もいます。

 

「観光立県」の実情は、主導権を「発地」(東京)に握られた薄利商売。「沖縄県のリーディング産業」であるからには付加価値を少しでも付けたいところですが、第1次産業、第2次産業とも衰退の一途なのです。

 

第1次産業      1・9%(本土復帰時6・5%)
第2次産業(製造業) 5・2%(同10・7%)
第3次産業      87・0%(同73・4%)

 

第1次産業、第2次産業をいま、“命”懸けで振興させていかなければ、2050年には、県民の“命”が懸かった事態に陥ってしまうかも。

 

沖縄県の人口増加率全国一は、沖縄県の将来像に向けて、冷ややかなメッセージも秘めているような気がしてなりません。

 

第1次産業と第2次産業を「沖縄県のリーディング産業」とリンクさせられるだけの《産業構造の理想的なバランス》こそ、「立県」の冠に据えてほしいところです。

 

もし、第3次産業が不慮の出来事で衰退する事態になっても、第1次産業と第2次産業がしっかりしていれば、《県産品利用》により、県民にはなんとか食べていける可能性が拓けます。

 

第3次産業の偏重は、危機にもろい。「移民」の歴史が繰り返されませぬように。

 

*写真は、北谷町砂辺の休日。海辺で遊ぶ子どもたち。Tシャツを着ているところを見ると、ウチナーンチュ。05年7月撮影。クリックすると、拡大します。



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京都・祇園祭のなかの《古琉球》

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京都の祇園祭は、起源が1000年以上もさかのぼるといわれ、タペストリーに凝った31もの山と鉾が美しい古都を練り歩くことから、《動く染織美術館》などと賞賛されています。

 

今年の山鉾巡行は、次の日曜日(05年7月17日)です。

 

私は、山鉾巡行の前夜祭にあたる宵山(16日)が好きです。

 

宵闇が迫る頃、各山鉾は提灯に明かりを灯し、祇園囃子を奏で、明日の巡行を待ちます。

 

山鉾を管理している町家はそれぞれ、前掛け・見送り・水引などのタペストリー、そして自慢の屏風を公開します。

 

たいてい、その町家は老舗です。京都の人たちでも、ふだんは、なかなか入る機会がない……という話を聞いたことがあります。

 

そんな町家へ、浴衣に着替えた京都市街の若いOLや学生さんたちがたくさん、鈴の音をさわやかに立てながら、訪ね歩くのです。

 

その新旧のコントラストがとても新鮮で、私にとって宵山は、鈴の音のニライカナイ……です。

 

私は、山鉾のひとつ「黒主山」の取材で、3年続けて祇園祭に出掛けました。関連の取材を含めると計7回になりましょうか。といっても、20年ほど前の話ですが。

 

「黒主山」は、満開の桜をうわっと仰ぎ見るポーズの大伴黒主がご神体です。

 

その山(山鉾のうち、山は担ぐタイプで、鉾は引くタイプ)の前掛けは、1600年代の初頭に、〈第二尚氏〉7代目の王・尚寧が、日本の僧・袋中上人に贈ったものです。

 

二人の関係をかいつまんでお話ししますと……。

 

1603年のこと。磐城国(福島県)出身の僧・袋中が中国留学を目指して渡海したものの、琉球へ漂着してしまいました。

 

袋中は琉球で浄土念仏の教化につとめ、尚寧をはじめ、儀間真常など当時の経済人・文化人にも影響を及ぼしたといわれています。

 

現在、エイサーは、観光イベントだけでなく学校行事などでも大人気ですが、もともとは袋中が伝えた盆踊り(念仏踊り)が起源ではないか……という有力な説もあります。

 

袋中は、『琉球神道記』などを記しました。

 

これは、《古琉球》を知るうえで極めて貴重な文献です。

 

源為朝が舜天の父……という、興味深い一文も載っています。

 

袋中が帰国したのは1605年。その4年後に琉球は、島津の琉球侵攻に遭います。

 

琉球王だった尚寧は、島津によって囚われの身となり、徳川家康・秀忠に謁見するために「江戸のぼり」をさせられます。

 

その途上、尚寧は、恐らく京都で袋中と再会を果たしたようです。

 

このような歳月の間に、尚寧は袋中にいろいろな品々を贈呈しました。

 

その大半は現在、京都国立博物館に納められ、1988年には「特別陳列 袋中上人と檀王法林寺」が催されました。

 

私も取材しましたが、尚寧関連の展示品は、31点にのぼっていました。

 

「黒主山」の前掛けも、同じ時期に贈られた品です。

 

現在はレプリカが使用されていますが、私が取材した当時は、本物の「四爪飛龍波濤文の綴錦」で、かなり傷んでいたものの、明代の貴重な史料だ!……と専門家が折り紙をつけてくれました。

 

では、なぜ、「黒主山」の前掛けに、尚寧の贈呈品が使われるようになったのでしょう。

 

それは、袋中が開山した「檀王法林寺」の檀家のなかに、「黒主山」の関係者がおり、寄付を依頼したからのようです。

 

実際に、寺には、「黒主山」に贈ったことを示す「寄付証状」、「黒主山」からの「受領之証」が現存しています。

 

「黒主山」の関係者も、檀王法林寺から〈尚寧からの贈呈品〉の寄付を受けていたことを十分に承知していました。

 

しかし、取材を進めているうちに、意外にも、両者の交流が数百年間も途絶えていることが分かりました。

 

そこで、両者を引き合わす……などという役回りを、さらりとさせてもらった思い出があります。

 

余談になりますが、尚寧は、袋中の肖像画を描いています。

 

賛に記す「辛亥」「春三月」は、1611年春。尚寧が帰琉するために薩摩に滞留した時期に当たります。

 

ですから、再会を果たした後の印象で描いたようです。

 

本当に尚寧本人が描いたかどうかはいまや確認できませんが、その表情は、実に厳しく、体躯から重厚な迫力が発散しています。

 

人物画は、描いた人に似る……といわれます。

 

もし尚寧がこの肖像画を描いたとすると、帰国に臨むにあたっての心中、批判の声に耐えようとするある種の悲壮感が伝わってくるようにも感じました。

 

尊敬する袋中上人の姿をお借りして、心の拠り所にしよう……という思いで描いた肖像画だったのかもしれません。

 

ところで、数少ない《古琉球》の史料が京都に残っていたのは、太平洋戦争で空襲がなかったお陰……とも、いえそうです。

 

もし沖縄に残っていたとしても、沖縄戦の戦火からはまず、逃れられなかったでしょう。

 

祇園祭の見学ツアー(週刊レキオ社主催)を組んだ年、一部同行してくださった随筆家の岡部伊都子さんが、こんな一文を京都新聞に寄せていました。

 

 

尚寧王は、袋中上人の思いを重ねて、祇園祭の竜となっていらっしゃいました。

 

 

残る……ということは、それだけでドラマです。

 

まもなく、祇園祭を伝えるニュースが流れるでしょう。

 

そのとき、その古都の祭りに《古琉球》の残影もあることを、ちらりと思い出してみてください。

 

*写真は、私が取材した頃の「黒主山」。

 

*現在の「黒主山」の前掛けは、レプリカ。「四爪飛龍の綴錦」ではなく五爪龍の図柄。関係者によりますと、こちらの現物も、尚寧から袋中に贈られれた品だそうです。どうやら、「四爪飛龍」を使用する前の前掛けは、レプリカの現物を使っていたようです。



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アフター『なはの日』

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きのうは、7月8日に引っ掛けて「なはの日」でした。

 

「井筒屋」という老舗の那覇そばを復元する催しなど、関連イベントがテンプス前広場で繰り広げられ、マスコミではOTV(沖縄テレビ)が特に熱心に報道していました。

 

ところで、一夜明けた今朝、『琉球新報』(05年7月9日付)の経済面に、「那覇」にとって実に残念な記事が載っていました。

 

どうやら、外国人観光客は「那覇が好き」とは思っていないようです。

 

その記事は、独立行政法人・国際観光振興機構(JNTO)が56人の外国人観光客に那覇空港で聞いたアンケート(調査期間・1月下旬~2月上旬)の結果がベースになっています。

 

沖縄全体に対して、サービスの良さを筆頭に、県民のホスピタリティーの高さを示すうれしい評価が出た一方で、「那覇」にとっては、冷や水を浴びせられたような結果になっています。

 

『沖縄県内で親族・友人に薦めたい場所』(複数回答)は、「その他(那覇以外の)本島」が53票で圧倒的多数を占め、「那覇」14票、離島1票。『がっかりした場所』は「那覇」11票、「その他本島」6票、離島はゼロの順でした。

 

記事によりますと、JNTOは、『がっかりした場所』に「那覇」が少なからず挙がっている結果について、次のコメントをしています。

 

「……『食事がまずい』が3票ある程度で目立つ理由はない。不満足の理由をさらに調査分析しなければならないのではないか」

 

記事を読んで真っ先に思ったは、他府県からやってくる観光客の「那覇」に対する最新の評価はいかに?……でした。

 

同じような結果になっていないでしょうか?

 

「那覇空港自動車道」が「沖縄自動車道」にまもなくリンクしますと、那覇市の中心部を素通りして、那覇空港からヤンバル(沖縄本島北部)までスピーディーに行き来が可能になります。

 

沖縄観光をプロデュースしているのは、いうまでもなく、《着地》サイドではなく、《発地》サイド。つまり、東京などの大手旅行代理店や航空会社です。

 

彼らは観光ビジネスのプロですから、那覇に魅力なし!……と判断したら、あっという間に交通アクセスのスタイルをシフトするでしょう。

 

《その対策のためにも、きのうの「なはの日」があり、関連イベントが実施されたのか?》

 

遅ればせながら、そんなことをやっと、考えるようになりました。正直に告白しますと、「井筒屋の復元そば」にしか、気持ちが向きませんでした。これからHPを探して、チェックしてみることにします。

 

住まいは糸満市内ですが「那覇」にオフィスを構える者として、「那覇が好き?」「どこが好き?」と聞かれたとき、さぁ、私はなんと答えましょう。

 

*写真は、ヤチムン(焼き物)の街・壺屋(那覇市内)にて。他府県から友人がやってくると、牧志公設市場界隈から壺屋ヤチムン通りまで、散策を一緒に楽しみます。



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