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読むビタミン剤・第10錠 ビルマのコメを沖縄へ(「シーズンⅠ」最終話)

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沖縄を訪れた人から、

 

「沖縄で食べるおコメって、美味しいね!」

 

という声こそまだ、聞こえてきませんが、

 

「沖縄で食べるおコメは、味がどうもねぇ……」

 

という感想は、すっかり過去のものになりました。

 

今は昔……の話ですが、沖縄を訪れる観光客や転勤族の間に、「沖縄はコメが旨くない!」という定評がかつてあったのです。

 

1950年から54年に掛けて沖縄で出回っていたコメは、大半がビルマ米。現在のミャンマーのコメが主流でした。59、60年頃に生まれた現在50歳以上のウチナーンチュは、スペイン米、フランス米、イタリア米、エジプト米、アルゼンチン米、ブラジル米なども口にしていました。

 

その背景は、沖縄が米軍の統治下に置かれていたからです。

 

加えて、本土復帰を1972年に果たした後も、日本政府が、沖縄県内で消費するコメについては、時間を掛けて段階的に他府県と同等にしていく政策をとった……という事情があります。

 

その政策は、流通制度面や価格面で、日本の食糧管理法下へ直ちに合流するにはあまりに無理がある……という理由からでした。

 

現在の沖縄では、他府県とまったく同様に、美味しいコメを自分の好みで購入できます。しかし、終戦からおよそ40年間、沖縄だけは、他府県と異なるコメ事情があったのです。

 

そんな戦後沖縄のコメ事情を振り返るとき、主人公として必ず登場すべきなのが、『沖縄食糧』という沖縄史上極めてユニークな企業です。

 

その「極めてユニークな企業」の原点は、沖縄諮詢会でした。

 

沖縄諮詢会は、USCAR(ユースカー=米国民政府=沖縄統治のための米国政府の出先機関)ができるまで、〈進駐軍による政府〉とでも言うべき米軍政府(沖縄における米国陸軍・海軍の軍政府)とウチナーンチュとの架け橋になった重要な機関でした。

 

初代の委員長は、志喜屋孝信。初代の沖縄県知事になった人物です。

 

沖縄諮詢会は、高圧的な米軍政府に対し、意思の疎通を図りながら高い妥協点を懸命に模索し、自分たちの食糧についても果敢にリクエストしたのでした。

 

当時、米軍政府による食糧の配給基準は、なんとカロリー制でした。

 

カロリー……といってもウチナーンチュには馴染みがありません。ご飯を食べたいのにカロリーに準じて粉ミルクなどが配給されても、気持ちも胃袋も満たされるはずはありません。

 

そのうえ、配給がひどく不安定でした。ウチナーンチュはひもじい思いを余儀なくされ、「ヤミ」が氾濫しました。

 

そこで、沖縄諮詢会は、米軍政府に対して、「わたしたちはコメが食べたいのです!自分たちでコメをなんとか手に入れますから、どうか理解してほしい!」と、粘り強く交渉したのです。

 

その結果、米軍政府もついに、行政機関の代わりに食糧米の輸入・保管・販売業務を行う代行組織の設立を了承しました。

 

ところが、米軍政府が認めたのは、食糧公団だろう……とみていた沖縄諮詢会の予想に反して、株式会社だったのです。

 

1950年12月に、その株式会社『沖縄食糧』の創立総会が開かれました。

 

席上、社長の竹内和三郎(1907年、那覇市西本町生まれ)は、次のように挨拶しています。

 

「わが社は、株式組織による営利会社ということではあるが、他の一般の営利会社と異なり、食生活における面で、民衆の福祉に重大な責任を持つ公益性を持つ会社である」

 

創立したものの、資本金だけではとうてい運営できる状況にありませんでした。事業が公益性を持つだけに米軍政府の援助が必要でした。しかし、どういうわけか米軍政府は、食糧公団はダメ!株式会社なら認める!……という方針を頑なに貫いたのです。

 

このように『沖縄食糧』は、国家の食糧庁の性格を帯びた、他府県の株式会社ではちょっと考えられない独占企業として、よれよれのスタートを切ったのでした。

 

『沖縄食糧』はさっそく、コメの安定供給という命題に挑みました。

 

しかし、コメの長期大量確保は、予想をはるかに超えて困難でした。第2次世界大戦で、コメを生産する国々も痛手を受けていたからです。

 

当時、コメ輸出国のナンバー1は、タイでした。

 

『沖縄食糧』は、琉球農林省食糧局(米国統治下で全琉球列島を統括した沖縄住民側の中央政府である「琉球政府」より2年早く1950年に設置)とともに、タイへ懇願しました。

 

タイは、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。とうとう契約はかなわず、竹内は「ここであきらめるものか!」「なんとしても!」と拳を握り直し、一縷の望みをビルマに見出しました。

 

ビルマへ飛んだ竹内は、1カ月以上も交渉を続け、首相に直訴して、やっと長期契約にこぎつけたのです。

 

こうして、ビルマ米が、戦後混乱期のウチナーンチュの飢えを救う大きな役割を果たすことになりました。

 

ビルマの首相に直訴までして3万トンのコメを買い付けた竹内には、こんなエピソードがあります。

 

1945年6月23日(沖縄戦の終結日とされる日)、竹内が最も敬愛していた比嘉栄真医師が自決。それを伝え聞いた竹内も自決を決意しました。

 

竹内がそれを告白したとき、夫人は、子供たちが遊んでいる姿を見つめながら、ポツリとつぶやいたそうです。

 

「みなし児に、なるわねぇ……」

 

その一言が、竹内のはやる気持ちを抑えました。そして、こう思い直すに至りました。

 

「いったん、わたしは死んだのだ。……あとの人生は、沖縄に恩返しをしよう」

 

そして、竹内は、「鉄の暴風」が吹き荒れた後の沖縄で奮闘し、経済復興に尽力したのでした。後に、琉球商工会議所の設立に参画し、会頭としても活躍しています。

 

『沖縄食糧』はその後、思わぬ試練を受けます。USCARから睨まれたのです。

 

当時のビルマは、どちらかといえば共産圏とみなされ、USCARは、その地域の物資を沖縄へ入れさせたくなかったのです。

 

しかも、50年代後半あたりからアメリカに余剰農産物が出て、USCARは、カリフォルニア米などを沖縄へ……と考えました。

 

それでも『沖縄食糧』は、ビルマ米の輸入を止めませんでした。自分たちが飢えに苦しみ、大いに困っているときに長期契約してくれた恩義があったからです。

 

すると、USCARは、沖縄のコメ市場の1社独占はまかりならん!……と、圧力を掛けてきました。

 

これで、『沖縄食糧』の1社独占時代が終わり、沖縄におけるコメ取扱指定業者は58年に3社、63年に5社になりました。

 

輸入先についても、日本と、明らかに共産圏である国々を除けば、ほぼ自由にコメを入れられるように緩和されました。ですから、先述したとおり、現在50歳以上のウチナーンチュは、スペイン米なども食べているのです。

 

ちなみに、63年になって、沖縄に出回るコメは、カリフォルニア米、オーストラリア米に落ち着きました。粘り気に乏しいインディカ米でなく、ジャポニカ米にほぼ替わったのもその頃でした。

 

その後、沖縄が日本へ復帰することが決まり、厳禁だった日本とのコメの取り引きが70年に始まりました。(初めて沖縄に日本の新米がどっと入荷したのは69年12月。正月用として特別に、半月分の3600トンの新米が九州から入りました)

 

いま、沖縄で食べられるコメは、とてもおいしいです。他府県と同様に、消費者が好みのコメを購入できるようになったからです。

 

その一方で、「ヤミ」が氾濫する戦後の混乱期にウチナーンチュが渇望するコメを求め、体を張って契約交渉を続けた竹内の胸の奥に秘めていた思いは、歳月という名の大河にどんどん流されているようです。

 

粘り気が足りなかったというビルマ米の味わいとともに。

 

(了=『シーズンⅠ・全10話』は今回で完結)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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読むビタミン剤・第9錠 USCAR職員のチムグリサン

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沖縄の戦後史を振り返るとき、必ず登場するキイワードのひとつが「ユースカー(USCAR=米国民政府)」です。

 

沖縄を統治するためのアメリカの出先機関で、そのトップである「高等弁務官」の権限は、ほとんど絶対といえるものでした。

 

アメリカは当時、沖縄経済に対して、ウチナーンチュが輸入しやすいように極端な為替レートを設定したり、通貨を軍票(B円)からドルに切り替えるなどして、「基地経済」に特化した諸政策を執りました。

 

ひと言で言えば、沖縄経済を、「不沈空母」のためのサービス業にしようとしたのです。ウチナーンチュに対して、基地絡みの商売でドルを稼がせ、世界中から入ってくる多様な安い商品を買わせたのです。

 

それは、日本本土に向けた政策とは正反対のものでした。アメリカは、日本には「東洋のイギリス」をイメージし、重工業国家を目指して製造業の復興に配慮しました。

 

ですから、ユースカーには、「沖縄でじっくり製造業を育てる」という発想が乏しかったのです。

 

そんな状況のなかで、地上戦の傷跡が深い沖縄に吹いた産業の芽を守り、自ら盾となって、育てようと奮闘した米国人がいました。

 

ユースカー経済局次長、サムエル・C・オグレスビー氏です。

 

オグレスビー氏は、製造業全般の拡大に尽力し、特に、復興を目指していた糖業・パイン産業の実業家や、セメント・ビール・鉄鋼など新規産業の起業家たちにとって、ありがたい助っ人でした。

 

そのときの「ご恩」は、沖縄産業界の記憶に深く染み込み、沖縄県工業連合会が、彼の業績を永遠に記念して「オグレスビー氏産業開発基金」(「オグレスビー工業功労者賞」を毎年実施)を設立したほどです。

 

オグレスビー氏は定年を迎えてもアメリカへ帰国せず、1966年に他界し、那覇市泊にある通称「外人墓地」で、夫人のタイスさんとともに永眠しています。

 

毎年12月の命日になると、沖縄産業界の重鎮たちが「恩人」の墓地を必ず訪れ、祈りを捧げています。

 

でも、どうしてそこまで、オグレスビー氏は、沖縄のために尽力したのでしょうか?

 

その、半世紀以上に及ぶ謎が、2009年12月、ご子息であるサム・オグレスビー・ジュニア氏の来沖で明らかになりました。

 

ジュニア氏は、来沖歓迎会の挨拶で、次のように述べたのです。

 

 

……父はよく、冗談交じりに、「自分は島で生まれたので、島で一生を終えたい」と、言っておりました。
父が生まれたのは、アメリカ東部のチュサピーク湾の中央に位置し、バージニア州に属するタンジール島です。
その島は、1600年代にイギリスから最初の移住者が住み着き、その後も、アメリカ本土の影響をほとんど受けませんでした。
ですから、今日でさえ、島民は、数百年前のシェークスピア時代のアクセントで話します。前庭に親族の墓地があり、そのなかに自分の墓もあるという、とても珍しい風習も残っています。
タンジール島は、とても貧乏でした。
祖父は医者でしたが、患者は、貧しい農民や漁民ばかりです。ですから、診察代は、扁桃腺を取ればブタ数匹、子供の病気を治療すれば鶏卵で、貯蓄もできない苦しい生活でした。
その祖父は、若くして他界しました。ですから、父は、祖母と、小さな土地が生み出すわずかな食糧で生活し、幼い頃から苦労を重ねたのです。
しかし、父は、優秀な学生に成長しました。16歳のとき、2段階特進で大学へ進学しました(メリーランド大学で学士号・修士号修得)。
そのとき、父の純真さを物語る話があります。
大学から「歓迎ダンスパーティー」の招待状をもらっても、そこに書かれてある「タキシード着用」の意味が全く分からなくて、級友たちに「田舎者!」と、笑われたのです。
こんなささやかなエピソードを、あえてご紹介したのには、理由があります。
それは、父が、貧困をよく理解していたこと。そして、「純真とは、必ずしも悪いことではない」と考えていたことです。
沖縄は、第2次世界大戦によって焦土と化し、ひじょうに貧しい島になってしまいました。
父は、そんな沖縄が、自分のバックグラウンドであるタンジール島と重なって見えたのではないでしょうか。
恐らく、父の生い立ちそのものが、沖縄にこだわり続けた大きな理由だったのではないか。私には、そう思えてならないのです。
父は、率先して、沖縄の産業振興をお手伝いする仕事に取り組みました。
しかし、父の考え方や行動は、軍事優先政策をとっていた当時のユースカーから、必ずしも賛同を得られたわけではありませんでした。
そうした厳しい状況のもとでも、父は、自分の人生を掛けて、なんとかして産業を興そうとしている沖縄の純真な友人たちのために奮闘し、多くの産業を興すことに助力し、ついに成功したのです……。

 

 

「チムグリサン、か……」

 

ジュニア氏の来沖記念式典で、だれかがポツリと独り言をつぶやきました。

 

チムグリサンとは、沖縄の方言です。日本の言葉で置き換えようとすると、一語ではうまくいきません。

 

あえて表現すれば、「見るに忍びない相手の状況に接して不憫に思い、他人事とはとても思えず、こちらの胸が苦しくなってしかたのないさま」というところでしょうか。

 

そんな思いを胸に秘めていたオグレスビー氏は、ペリー艦隊が1853年に上陸した地で、いまはすっかり、沖縄の土になっています。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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読むビタミン剤・第8錠 上杉謙信の「義」、沖縄でも

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今回の主人公は、明治時代のヤマトゥンチュです。

 

歴史の虫眼鏡を、1881年5月から83年3月までの日本に当ててみますと、政界に、大きな地殻変動が起きています。

 

世に言う「明治14年の政変」です。自由民権運動の盛り上がりを背景に「10年後に国会を開設する」という勅旨が出て、自由党、立憲改進党が誕生。伊藤博文が、欽定憲法の研究のためにヨーロッパへ渡っています。

 

そのまま虫眼鏡をずらして、まったく同じ時期の沖縄を覗いてみますと、ヤマト(本土)から赴任してきた県令(県知事)が、自分を任命した明治政府に対して、過激な上申をしています。

 

「沖縄県の農民は、悲惨な暮らしをしている。彼らの家はたいてい2、3間角(にさんげんかく)の小屋で、四方の壁は茅と竹でできており、軒(のき)は地面からようやく3、4尺の高さで、ほとんど床というものがない。家族6~7人が、豚や山羊と一緒に住まい、蚊や虻(あぶ)に刺されるまま、芋を食って暮らしている。
着物も粗末で、雨に濡れ、日にさらされ、履き物もなく、家にひきこもって、ときたま泡盛を飲むのを最高の楽しみにしている。
彼らは字も読めず、めいめいの負担する税額すら知らない。ただ村役人の言うがままに銭や米・粟を納めているにすぎない。
こんな惨めな生活をしていて、自分の惨めさを知らない。どうして沖縄の人々だけが、こんなに不幸になっているのか!」

 

まるで腕まくりをして挑んでくるかのような県令の上申を受けて、明治政府は大いに慌てました。まさに、飼い犬に手を噛まれたからです。

 

当時、日本と清国との関係は最悪の状態に差し掛かっていました。

 

もし、ウチナーンチュが清国と結んで王政復古の暴動でも起こしたら、日本は、南方進出への拠点を失いかねませんでした。

 

そこで、明治政府は、琉球王国の支配者層だった人々の特権を、王国時代とほぼ同様に認めてやり、いわば手懐けたのです。歴史学者は、その懐柔策を「旧慣温存政策」と呼んでいます。

 

しかし、王国時代に支配者層ではなかった大半のウチナーンチュは、たまったものではありませんでした。あいかわらず、貧困を極めた暮らしを続けなければならないのですから。

 

沖縄県令の上申は、明治政府にとって、危険な提言に映りました。

 

もし、その提言通りに政治の舵を取ったら、旧支配者層の特権を取り上げることになります。そうなれば、せっかく手懐けた彼らが、離反してしまうにちがいありません。

 

ところで、明治政府を震撼させた沖縄県令は、上杉茂憲(もちのり)という、米沢藩最後の藩主だった人物です。

 

歴史ファンなら、「上杉」の2文字を見て、もしや!……と、ときめいたのではないでしょうか。

 

2009年のNHK大河ドラマは、上杉謙信が理念として掲げた「義」をテーマにした『天地人』でした。そのドラマで、主人公の直江兼続が仕えた上杉景勝から数えますと、茂憲は、13代あとの直系にあたります。

 

上杉県令は着任後、離島を含め、県内各地を巡回視察し、重税と貧困にあえいでいる農民、大きな屋敷を構えて倉をいっぱいにしている地方役人、農民を不当に搾取している地方吏員(沖縄県に派遣された国家公務員)の実態を目撃しました。

 

そして、上杉県令は、沖縄県には近代化に向けた改革が早急に必要である!……と決断し、明治政府に直接、地方吏員の削減と、「旧慣温存政策」の速やかな改革を上申したのです。

 

しかし、明治政府は、「そんなことを言わせるために、アンタを2代沖縄県令に任命したんじゃない!」とばかりに上杉県令を解任し、改革案を次々に潰してしまいました。

 

上杉県令は、2年に満たない在任期間でしたが、県政改革ばかりでなく、将来に向けた人材育成にも手をつけました。「県費留学生」の東京派遣です。

 

のちに、留学生たちは、各業界の中心人物や自由民権運動の先駆者となって、おおいに活躍をしました。例えば、「沖縄銀行」や「琉球新報」の創業者、沖縄初の衆議院議員は、彼らのなかにいます。

 

上杉茂憲は、県令を辞して沖縄を去るときも、多額の教育資金を沖縄県へ寄付し、見送るウチナーンチュを唸らせました。

 

ここまで記せば、大河ドラマをご覧になった皆さんは、次の言葉にうなずいてくださると思います。

 

――上杉家は、沖縄でも、上杉の「義」をかたくなに貫いたのである。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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