カテゴリー別アーカイブ: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa

読むビタミン剤・第4錠 八月十五夜のゴッドファーザー

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
投稿日:

映画館内の照明が、ゆっくり落とされていきます。すっかり闇に包まれると、古い映画が映し出されました。

 

1956年制作のアメリカ映画です。

 

銀幕に、ぬーっと現れたのは、ウチナーンチュの青年。洋服ではなく、労働者風情の安っぽい着物を着ています。

 

どうやら、時代と舞台は、太平洋戦争直後の沖縄のようです。

 

その青年は、館内の観客に向かって、人なつこい笑顔を向けながら、こんな話を始めます。

 

「沖縄の歴史には、征服者たちの歴史があるんだよ。14世紀には中国の海賊に征服された。16世紀にはイギリスの宣教師に。18世紀には日本の大名にね。そして、20世紀は、アメリカさぁ!
沖縄はよ、ラッキーな島さぁ!……こっちからわざわざ出掛けていかなくっても、向こうから、文化がやってくるよ。お陰で、いろんなこと、たくさんのことが分かったよ。
人間は、苦労しながら物事を考える。よく考えると、知恵がつく。知恵がつくと、命を大切にするよ。
ウチナーンチュは、征服者に教育されることを望み、やがて、意見を主張することを望み、ついには、互いの意見の違いをはっきりさせようと望む。ふふふふ……。そりゃあ、辛いこともあるさぁね。だけど、賢さは、人生を支えてくれる。
さぁ、皆さん。これから、ウチナーンチュが、デモクラシーとやらをアメリカから受け入れる、同化作用の素晴らしいお手本をお目に掛けましょう!」

 

こうして、映画『八月十五夜の茶屋』(ダニエル・マン監督)は始まります。

 

ウチナーンチュの青年は、進駐軍の通訳で、なんと、マーロン・ブランドが演じています。いうまでもなく、ブランドは、『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』などで主演を務めた名優中の名優です。

 

映画は、民主主義を教える任務を受けた大尉が、ある村へ派遣されるところから始まります。

 

ところが、この大尉、通訳の青年や村人たちによって逆にまるめこまれ、いつのまにか、〈お茶屋〉をつくらされたり、泡盛の製造も認めてしまう……という「ミイラ取りがミイラになる」展開になっていきます。

 

この映画に登場する〈お茶屋〉と、京マチ子が演じた「ゲイシャ」は、モデルが存在します。那覇市辻の料亭「松乃下」と、その経営者だった故・上原栄子さんです。

 

上原さんは、4歳のときにモッコで担がれて辻遊郭に売られてきました。以来、行儀作法や芸事を徹底的に仕込まれ、昭和19年まで尾類(じゅり)として暮らしました。

 

尾類とは、遊女のことです。しかし、辻遊郭には、他府県の遊郭とは明らかに異なる独特の文化や風習がありました。

 

上原さんが、知られざる辻(チージ)の世界を内側から紹介した自伝『辻の華~くるわのおんなたち』を刊行したときは、大きな反響を呼んだものです。

 

上原さんは生前、『八月十五夜の茶屋』について、こんな感想を述べています。

 

「この映画はね、沖縄の人間が忘れかけている〈したたかさ〉というか、良い意味での〈力強さ〉に溢れているの。じめじめしたイメージがない。そこがいいのよ!」

 

果たして、名優マーロン・ブランドが軽妙に演じたウチナーンチュの青年を、皆さんがご覧になるチャンスは巡ってくるでしょうか。

 

映画のエピローグで、その青年は、満足そうな笑みを浮かべながら、再び映画館内の観客に向かって語り掛けます。

 

「この物語は、これで、おしまい。でも、世界の歴史は、まだ終わってないよ。
みなさん、おうちに帰ったら、よーく考えてみてください。最初に真実だったことが、まだ真実だ、ということを。
苦労が、人間を考えさせてくれる。考えたら、人間は、賢くなるよ。賢くなれば、この世の苦労をがまんできる。
それでは、みなさん、お別れです。八月十五夜に、ぐっすり眠れますように……」
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

*弊社ホームページは故障のため、写真データを掲載できなくなってしまいました。文字データのみの発信が当分続きます。しばらくお待ち下さい。 _(_^_)_

◆サイト内の文章・画像等は、すべて無断転載を禁じます。



関連記事

読むビタミン剤・第3錠 沖縄の豚肉はなぜうまい?

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
投稿日:

沖縄の人々は、豚肉が大好きです。那覇市の牧志公設市場へ行けば、「ウチナーンチュは、豚の声以外はぜんぶ食べる」という説明にたちまち納得します。

 

明治13年のデータを見ますと、沖縄県の養豚数は5万頭。しかし、他府県ではほとんど飼育されていません。このデータは、沖縄で豚肉を食べるようになった時期が、他府県より、だいぶ早かったことを物語っています。

 

ウチナーンチュが豚肉好きになった時期は、琉球王国時代に遡り、冊封使の食糧対策がきっかけのようです。

 

冊封使とは、中国皇帝の使者のことです。新しい琉球国王の即位を認める勅書を携え、料理人を含む総勢400人の使節団を組んでやってきました。

 

滞在期間は8カ月以上に及び、1日に20頭分のペースで豚肉を平らげたそうです。ですから、滞在中、実に5000頭もの豚を消費したことになります。

 

琉球王府は、使節団の来琉に備えて、豚の増産に本腰を入れました。その結果、庶民も食指を動かせるようになり、年に数えるほどでしたが、豚を潰して甘い肉を堪能できるようになったのです。

 

時代は移ろい、太平洋戦争末期に、沖縄で、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が起きました。「沖縄戦」です。この戦闘で、20万人もの死者が出ました。

 

戦後、避難民収容所に送り込まれたウチナーンチュは、精も根も尽き果てていました。なにしろ、4人に1人を殺した「鉄の暴風」が吹き荒れたのですから。

 

そんな人々の胃袋を慰めたものがありました。アメリカ軍がときどき配付する、豚肉を加工した野戦用の缶詰です。その旨さに、皆、魅せられました。その缶詰は、「ポークランチョンミート」といわれるものです。

 

その頃、ハワイでは、戦前に移住した沖縄県系人たちが、戦火に翻弄された故郷を案じていました。

 

入ってくる情報は、息を詰まらせるものばかり。県系人たちは、「どうしたら故郷の同胞たちを励ますことができるだろうか」と、真剣に話し合いました。

 

「豚もだいぶやられてしまったという。だったら、種豚をたくさん贈ろうじゃないか。豚肉が食べられるようになれば、郷土を再建する力も湧いてくるんじゃないか?」

 

たしかに、「鉄の暴風」は、豚の命も大量に奪っていました。養豚数は戦前、14万頭を超えていましたが、戦後は、1万4千頭あまりに激減してしまっていたのです。

 

こうして、ハワイの県系人たちは、自分たちも暮らしを支えるのに苦労し、社会的に弱い立場でありながら、募金活動を精力的に行いました。そして、サンフランシスコへ渡って550頭もの種豚を買い付け、その豚たちとともに、代表7人の男たちが、ポートランド港から、焦土と化した故郷・沖縄へ向けて出港したのでした。

 

嵐に見舞われて途中で引き揚げるなど、太平洋を横断する輸送は困難を極めました。まだまだ機雷が漂流している大海原を決死の思いで渡り切り、沖縄本島の島影が見えたとき、男たちは、お互いに抱き合って号泣したそうです。

 

1948年9月27日、勝連半島のホワイトビーチで、種豚が陸揚げされました。その550頭のおかげで、沖縄の養豚数は激増し、戦後6年で早くも戦前の域まで達しました。

 

しかし、かつて黒かった沖縄の豚は、種豚の遺伝子によって、すっかり白くなりました。

 

ラフテー、アシテビチ、ソーキ汁、ミミガー刺身……。「長寿健康食」といわれる沖縄料理の食材に、豚肉は欠かせません。

 

その豚肉の味わいには、ハワイのウチナーンチュの、故郷に向けた深い愛情も、交じっているのです。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

*弊社ホームページは故障のため、写真データを掲載できなくなってしまいました。文字データのみの発信が当分続きます。しばらくお待ち下さい。 _(_^_)_

 

◆サイト内の文章・画像等は、すべて無断転載を禁じます。



関連記事

読むビタミン剤・第2錠 「港川人」発見者の意外な素顔

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
投稿日:

1968年8月29日付の『毎日新聞』に、かなり緊迫したプラハの街の写真が載りました。

 

ホテルの上階から撮影したもので、突然侵入してきたソ連軍の戦車に市民たちが群がっています。罵声を浴びせたり、投石を試みるなど、まさに、一触即発の雰囲気が伝わってきます。キャプションは「ソ連軍戦車にプラハ市民の怒り」。

 

この出来事は、ワルシャワ条約機構軍20万人が、自由化・民主化の兆しを見せていたチェコスロバキアに武力介入した「チェコ事件」です。

 

実は、この掲載写真、ボディに「メイド・イン・リュウキュウ」と記されたオートマチック・コンパクトカメラ「NEWPAX」で撮影されました。

 

その証拠は、カメラマンからの手紙です。そこには「あなたからいただいたカメラで撮り、『毎日新聞』に載った写真です」と記され、ぐっと引き延ばした同じ写真が添えられてあります。

 

手紙をもらった人物は、沖縄で、「NEWPAX」を製造販売していた故・大山盛保さん。そのカメラは、大山さんが経営していた会社で、1963年から、1台10~12ドルで発売していました。

 

戦後まもない頃の大山さんの口癖は、「戦争で、沖縄はなにもかもなくなってしまった。なんとかして、元気づけなければ!」でした。

 

それがやがて、「沖縄で、産業を興さなくてはいけない!」という実業家としての口癖と、「沖縄は、どこの国にも負けぬ古い歴史があるのだ!」という考古学研究者としての口癖に変わりました。

 

大山さんは、1912(大正1)年生まれ。中城村の出身です。10代で、父親とともにカナダへ移住し、太平洋戦争勃発と同時に財産をすべて没収され、日系収容所に連行されました。戦後まもなく沖縄へ帰り、アメリカ軍が基地化を推し進めていく焼け野原を眺めながら、拳を固めました。

 

そして、自分の英語力を生かし、通訳を皮切りに、沖縄住宅公社の初代総支配人にまで就きました。

 

総支配人時代の仕事ぶりを象徴する、こんなエピソードがあります。

 

アメリカ軍司令部から、「新しい居住区の地名を付けよ」という命令が下り、大山さんは、戦前の地名である「山下」を提案しました。すると、司令部は、「ノー、ヤマシタ!」と、烈火の如く激怒しました。シンガポール攻略で有名な日本軍の司令官・山下奉文を想起させてしまったのです。そればかりではありません。「アイゼンハワーはどうか?」「マッカーサーがいいかな」などと、一方的に地名を決める気配を見せました。

 

いくらなんでも!……と危惧した大山さんは、とっさに「黒船のペリーではいかがですか?」と提案し、「問題はない」と了解を得たそうです。

 

ペリー提督の艦隊は、浦賀より先に琉球へやって来ているので、沖縄とは関わりがあります。上陸地点こそ、山下ではなく泊でしたが、大山さんは、アメリカ軍人の名前がつけられそうになるのを避けるために、高い妥協点を、瞬間的に模索したのでした。

 

大山さんは、このようなスタンスでうるさい司令部に対応し、一人でも多くのウチナーンチュに「住まい」を提供しようと努めたのです。

 

大山さんはその後、起業し、沖縄初のガソリンスタンドをオープンさせました。やがて、コンパクトカメラの製造にまで乗り出し、そのボディに刻んだ「メイド・イン・リュウキュウ」に「沖縄だって、このくらい造れるんだぞ!」という気概を込めました。

 

その一方で、考古学の調査・研究にも没頭しました。

 

そして、1968年、具志頭村港川の石切場で、日本中の考古学者たちを驚愕させる歴史的な発掘をしたのです。それは、およそ1万8000年前のホモサピエンス「港川人」の人骨でした。

 

学会は、「旧石器時代の容姿を、体型から顔立ちにいたるまで具体的に説明できる、日本で初めて出土した化石人骨」と、現在も高く評価しています。

 

大山さんは、この「港川人」の発見で、琉球・沖縄史が、決して浅いものではなく、世界に誇れるほど悠久の歳月を刻んでいたことを実証してみせたのでした。

 

大山さんの遺族は、こんな述懐をしています。

 

「父はよく、『欲を持つな。持ったぶんだけ、大事なものをなくすぞ。損得を考えるな』と言っていました」

 

大山さんが、焼け野原の郷土を眺めながら握りしめた拳のなかには、欲得のない使命感が宿っていたようです。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

*弊社ホームページは故障のため、写真データを掲載できなくなってしまいました。文字データのみの発信が当分続きます。しばらくお待ち下さい。 _(_^_)_

 

◆サイト内の文章・画像等は、すべて無断転載を禁じます。



関連記事
3 / 41234