読むビタミン剤・第3錠 沖縄の豚肉はなぜうまい?

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
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沖縄の人々は、豚肉が大好きです。那覇市の牧志公設市場へ行けば、「ウチナーンチュは、豚の声以外はぜんぶ食べる」という説明にたちまち納得します。

 

明治13年のデータを見ますと、沖縄県の養豚数は5万頭。しかし、他府県ではほとんど飼育されていません。このデータは、沖縄で豚肉を食べるようになった時期が、他府県より、だいぶ早かったことを物語っています。

 

ウチナーンチュが豚肉好きになった時期は、琉球王国時代に遡り、冊封使の食糧対策がきっかけのようです。

 

冊封使とは、中国皇帝の使者のことです。新しい琉球国王の即位を認める勅書を携え、料理人を含む総勢400人の使節団を組んでやってきました。

 

滞在期間は8カ月以上に及び、1日に20頭分のペースで豚肉を平らげたそうです。ですから、滞在中、実に5000頭もの豚を消費したことになります。

 

琉球王府は、使節団の来琉に備えて、豚の増産に本腰を入れました。その結果、庶民も食指を動かせるようになり、年に数えるほどでしたが、豚を潰して甘い肉を堪能できるようになったのです。

 

時代は移ろい、太平洋戦争末期に、沖縄で、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が起きました。「沖縄戦」です。この戦闘で、20万人もの死者が出ました。

 

戦後、避難民収容所に送り込まれたウチナーンチュは、精も根も尽き果てていました。なにしろ、4人に1人を殺した「鉄の暴風」が吹き荒れたのですから。

 

そんな人々の胃袋を慰めたものがありました。アメリカ軍がときどき配付する、豚肉を加工した野戦用の缶詰です。その旨さに、皆、魅せられました。その缶詰は、「ポークランチョンミート」といわれるものです。

 

その頃、ハワイでは、戦前に移住した沖縄県系人たちが、戦火に翻弄された故郷を案じていました。

 

入ってくる情報は、息を詰まらせるものばかり。県系人たちは、「どうしたら故郷の同胞たちを励ますことができるだろうか」と、真剣に話し合いました。

 

「豚もだいぶやられてしまったという。だったら、種豚をたくさん贈ろうじゃないか。豚肉が食べられるようになれば、郷土を再建する力も湧いてくるんじゃないか?」

 

たしかに、「鉄の暴風」は、豚の命も大量に奪っていました。養豚数は戦前、14万頭を超えていましたが、戦後は、1万4千頭あまりに激減してしまっていたのです。

 

こうして、ハワイの県系人たちは、自分たちも暮らしを支えるのに苦労し、社会的に弱い立場でありながら、募金活動を精力的に行いました。そして、サンフランシスコへ渡って550頭もの種豚を買い付け、その豚たちとともに、代表7人の男たちが、ポートランド港から、焦土と化した故郷・沖縄へ向けて出港したのでした。

 

嵐に見舞われて途中で引き揚げるなど、太平洋を横断する輸送は困難を極めました。まだまだ機雷が漂流している大海原を決死の思いで渡り切り、沖縄本島の島影が見えたとき、男たちは、お互いに抱き合って号泣したそうです。

 

1948年9月27日、勝連半島のホワイトビーチで、種豚が陸揚げされました。その550頭のおかげで、沖縄の養豚数は激増し、戦後6年で早くも戦前の域まで達しました。

 

しかし、かつて黒かった沖縄の豚は、種豚の遺伝子によって、すっかり白くなりました。

 

ラフテー、アシテビチ、ソーキ汁、ミミガー刺身……。「長寿健康食」といわれる沖縄料理の食材に、豚肉は欠かせません。

 

その豚肉の味わいには、ハワイのウチナーンチュの、故郷に向けた深い愛情も、交じっているのです。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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