読むビタミン剤・第9錠 USCAR職員のチムグリサン

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
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沖縄の戦後史を振り返るとき、必ず登場するキイワードのひとつが「ユースカー(USCAR=米国民政府)」です。

 

沖縄を統治するためのアメリカの出先機関で、そのトップである「高等弁務官」の権限は、ほとんど絶対といえるものでした。

 

アメリカは当時、沖縄経済に対して、ウチナーンチュが輸入しやすいように極端な為替レートを設定したり、通貨を軍票(B円)からドルに切り替えるなどして、「基地経済」に特化した諸政策を執りました。

 

ひと言で言えば、沖縄経済を、「不沈空母」のためのサービス業にしようとしたのです。ウチナーンチュに対して、基地絡みの商売でドルを稼がせ、世界中から入ってくる多様な安い商品を買わせたのです。

 

それは、日本本土に向けた政策とは正反対のものでした。アメリカは、日本には「東洋のイギリス」をイメージし、重工業国家を目指して製造業の復興に配慮しました。

 

ですから、ユースカーには、「沖縄でじっくり製造業を育てる」という発想が乏しかったのです。

 

そんな状況のなかで、地上戦の傷跡が深い沖縄に吹いた産業の芽を守り、自ら盾となって、育てようと奮闘した米国人がいました。

 

ユースカー経済局次長、サムエル・C・オグレスビー氏です。

 

オグレスビー氏は、製造業全般の拡大に尽力し、特に、復興を目指していた糖業・パイン産業の実業家や、セメント・ビール・鉄鋼など新規産業の起業家たちにとって、ありがたい助っ人でした。

 

そのときの「ご恩」は、沖縄産業界の記憶に深く染み込み、沖縄県工業連合会が、彼の業績を永遠に記念して「オグレスビー氏産業開発基金」(「オグレスビー工業功労者賞」を毎年実施)を設立したほどです。

 

オグレスビー氏は定年を迎えてもアメリカへ帰国せず、1966年に他界し、那覇市泊にある通称「外人墓地」で、夫人のタイスさんとともに永眠しています。

 

毎年12月の命日になると、沖縄産業界の重鎮たちが「恩人」の墓地を必ず訪れ、祈りを捧げています。

 

でも、どうしてそこまで、オグレスビー氏は、沖縄のために尽力したのでしょうか?

 

その、半世紀以上に及ぶ謎が、2009年12月、ご子息であるサム・オグレスビー・ジュニア氏の来沖で明らかになりました。

 

ジュニア氏は、来沖歓迎会の挨拶で、次のように述べたのです。

 

 

……父はよく、冗談交じりに、「自分は島で生まれたので、島で一生を終えたい」と、言っておりました。
父が生まれたのは、アメリカ東部のチュサピーク湾の中央に位置し、バージニア州に属するタンジール島です。
その島は、1600年代にイギリスから最初の移住者が住み着き、その後も、アメリカ本土の影響をほとんど受けませんでした。
ですから、今日でさえ、島民は、数百年前のシェークスピア時代のアクセントで話します。前庭に親族の墓地があり、そのなかに自分の墓もあるという、とても珍しい風習も残っています。
タンジール島は、とても貧乏でした。
祖父は医者でしたが、患者は、貧しい農民や漁民ばかりです。ですから、診察代は、扁桃腺を取ればブタ数匹、子供の病気を治療すれば鶏卵で、貯蓄もできない苦しい生活でした。
その祖父は、若くして他界しました。ですから、父は、祖母と、小さな土地が生み出すわずかな食糧で生活し、幼い頃から苦労を重ねたのです。
しかし、父は、優秀な学生に成長しました。16歳のとき、2段階特進で大学へ進学しました(メリーランド大学で学士号・修士号修得)。
そのとき、父の純真さを物語る話があります。
大学から「歓迎ダンスパーティー」の招待状をもらっても、そこに書かれてある「タキシード着用」の意味が全く分からなくて、級友たちに「田舎者!」と、笑われたのです。
こんなささやかなエピソードを、あえてご紹介したのには、理由があります。
それは、父が、貧困をよく理解していたこと。そして、「純真とは、必ずしも悪いことではない」と考えていたことです。
沖縄は、第2次世界大戦によって焦土と化し、ひじょうに貧しい島になってしまいました。
父は、そんな沖縄が、自分のバックグラウンドであるタンジール島と重なって見えたのではないでしょうか。
恐らく、父の生い立ちそのものが、沖縄にこだわり続けた大きな理由だったのではないか。私には、そう思えてならないのです。
父は、率先して、沖縄の産業振興をお手伝いする仕事に取り組みました。
しかし、父の考え方や行動は、軍事優先政策をとっていた当時のユースカーから、必ずしも賛同を得られたわけではありませんでした。
そうした厳しい状況のもとでも、父は、自分の人生を掛けて、なんとかして産業を興そうとしている沖縄の純真な友人たちのために奮闘し、多くの産業を興すことに助力し、ついに成功したのです……。

 

 

「チムグリサン、か……」

 

ジュニア氏の来沖記念式典で、だれかがポツリと独り言をつぶやきました。

 

チムグリサンとは、沖縄の方言です。日本の言葉で置き換えようとすると、一語ではうまくいきません。

 

あえて表現すれば、「見るに忍びない相手の状況に接して不憫に思い、他人事とはとても思えず、こちらの胸が苦しくなってしかたのないさま」というところでしょうか。

 

そんな思いを胸に秘めていたオグレスビー氏は、ペリー艦隊が1853年に上陸した地で、いまはすっかり、沖縄の土になっています。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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