おかげさまで超満員!~平良裕功・追悼コンサート

カテゴリー: お知らせ
投稿日:

平良裕功さんの追悼コンサートが昨日(2010年2月28日)、那覇市泉崎の琉球新報ホールで開かれ、おかげさまで超満員(700人以上!)。立ち見も出るほどで、発起人たちが恐縮するほどでした。

 

第1部の「しのぶ会」、第2部のオールド・ファッション・ラブソングほか3バンドによる「コンサート」とも好評でした。

 

その様子が、明後日(3月3日)水曜日に、沖縄テレビの「OTVスーパーニュース」で、特集『天国へ届け!亡き友を送るコンサート』が放送されます。
午後6時17分頃からだそうです。

 

どうぞ、ご覧あれ。

 

ちなみに、わたしも「発起人」の一人で、司会を務めました。
アシスタントは、高江洲若菜さん(壺屋焼の陶芸家・高江洲忠氏の長女)でした。

 

*弊社ホームページは故障のため、写真データを掲載できなくなってしまいました。文字データのみの発信が当分続きます。しばらくお待ち下さい。 _(_^_)_



関連記事
    None Found

司会を務めます!~平良裕功・追悼コンサート

カテゴリー: お知らせ
投稿日:

下記の記事が『沖縄タイムス』に載るやいなや、前売券がすべて売れてしまったのようなのでお伝えしなかったのですが、平良裕功さんの追悼コンサートが今日夕方、那覇市泉崎の琉球新報ホールで開かれます。

 

わたしは司会を務めます(発起人の一人です)。

 

20人を超えた発起人たちの温かい思いを、一所懸命、誠実に伝えたいと思っています。
よいコンサートになりますことを。

 

『沖縄タイムス』(2010.02.22付・29頁 ひと・まち)に載った記事の見出しは、『ゆうこうさんライブで送る/急逝の友に仲間が企画/オールド・ファッション・ラブソング/28日 那覇市内で』。

 

記事は、下記の通りです。

 

 

県内を中心に38年間音楽活動を続け、息の合ったコーラスでファンを魅了した男性トリオ「オールド・ファッション・ラブソング」のギタリストで、昨年11月に大動脈剥離(はくり)で急逝した平良裕功(ひろのり)さん(享年59歳)=南風原町=をしのんで28日、那覇市内の琉球新報ホールで追悼コンサートが開かれる。メンバーの濱川政勝さん(62)=ピアノ、政敏さん(60)=ベース=兄弟のほか、20人を超す友人らが企画した。(上間千沙恵)

 

友人らは「(長い間)楽しませてもらった」「遺された家族を励ましたい」とコンサートの実行委員会を立ち上げた。平良さん作詞のオリジナル「さよならのうた」などを披露する。濱川さん兄弟は「初ライブをした思い出のホールで、明るく(あの世へ)送りたい」と話している。

 

気さくな性格で「ゆうこうさん」の愛称で誰からも親しまれた。昨年11月8日、濱川兄弟とともに那覇市内で開かれた演奏会のステージに立っていた。中休みの時に「背中が痛い」と訴え救急車で病院に運ばれたが、直後に意識を失い、その日のうちに息を引き取った。

 

バンドは古くからの友人だった平良さんと政敏さんが1972年、互いの帰郷をきっかけに結成。初ライブの後に政勝さんが加わって、ゴスペルやオールディーズ、ロシア民謡などを歌ってきた。

 

平良さんの死をきっかけに再び積極的にステージに立つようになったという政敏さんは「後悔したくない。体が続く限り、ゆうこうの分まで2人でやっていく」と決意を固めている。

 

コンサートは28日午後5時から。1部はバンドの映像などを映し、2部は濱川さん兄弟ほか3組が演奏する。2000円(飲食費込み)。問い合わせは前田鶏卵、電話098(861)6488。

 

(写図説明)生前の平良裕功さん(右)。濱川政敏さん(中央)、政勝さんとのハーモニーで魅了した。写真は1985年ごろ=那覇市内

 

(写図説明)平良さんの思い出を話す濱川政勝さん(右)、政敏さん兄弟=浦添市伊奈武瀬・市場食堂浜屋

 

 

会場の琉球新報ホールは、わたしにとっても30年ほど前に琉球新報社編集局の入社試験を受けた懐かしい空間なので、ご縁を感じながら楽しんできます。

 

かなり遅ればせのご報告で恐縮ですが、当日券がまだ少し残っているようです。
ご都合がつくようでしたら、ぜひいらしてください。会場でお会いしましょう。

 

鈴木孝史



関連記事
    None Found

読むビタミン剤・第9錠 USCAR職員のチムグリサン

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
投稿日:

沖縄の戦後史を振り返るとき、必ず登場するキイワードのひとつが「ユースカー(USCAR=米国民政府)」です。

 

沖縄を統治するためのアメリカの出先機関で、そのトップである「高等弁務官」の権限は、ほとんど絶対といえるものでした。

 

アメリカは当時、沖縄経済に対して、ウチナーンチュが輸入しやすいように極端な為替レートを設定したり、通貨を軍票(B円)からドルに切り替えるなどして、「基地経済」に特化した諸政策を執りました。

 

ひと言で言えば、沖縄経済を、「不沈空母」のためのサービス業にしようとしたのです。ウチナーンチュに対して、基地絡みの商売でドルを稼がせ、世界中から入ってくる多様な安い商品を買わせたのです。

 

それは、日本本土に向けた政策とは正反対のものでした。アメリカは、日本には「東洋のイギリス」をイメージし、重工業国家を目指して製造業の復興に配慮しました。

 

ですから、ユースカーには、「沖縄でじっくり製造業を育てる」という発想が乏しかったのです。

 

そんな状況のなかで、地上戦の傷跡が深い沖縄に吹いた産業の芽を守り、自ら盾となって、育てようと奮闘した米国人がいました。

 

ユースカー経済局次長、サムエル・C・オグレスビー氏です。

 

オグレスビー氏は、製造業全般の拡大に尽力し、特に、復興を目指していた糖業・パイン産業の実業家や、セメント・ビール・鉄鋼など新規産業の起業家たちにとって、ありがたい助っ人でした。

 

そのときの「ご恩」は、沖縄産業界の記憶に深く染み込み、沖縄県工業連合会が、彼の業績を永遠に記念して「オグレスビー氏産業開発基金」(「オグレスビー工業功労者賞」を毎年実施)を設立したほどです。

 

オグレスビー氏は定年を迎えてもアメリカへ帰国せず、1966年に他界し、那覇市泊にある通称「外人墓地」で、夫人のタイスさんとともに永眠しています。

 

毎年12月の命日になると、沖縄産業界の重鎮たちが「恩人」の墓地を必ず訪れ、祈りを捧げています。

 

でも、どうしてそこまで、オグレスビー氏は、沖縄のために尽力したのでしょうか?

 

その、半世紀以上に及ぶ謎が、2009年12月、ご子息であるサム・オグレスビー・ジュニア氏の来沖で明らかになりました。

 

ジュニア氏は、来沖歓迎会の挨拶で、次のように述べたのです。

 

 

……父はよく、冗談交じりに、「自分は島で生まれたので、島で一生を終えたい」と、言っておりました。
父が生まれたのは、アメリカ東部のチュサピーク湾の中央に位置し、バージニア州に属するタンジール島です。
その島は、1600年代にイギリスから最初の移住者が住み着き、その後も、アメリカ本土の影響をほとんど受けませんでした。
ですから、今日でさえ、島民は、数百年前のシェークスピア時代のアクセントで話します。前庭に親族の墓地があり、そのなかに自分の墓もあるという、とても珍しい風習も残っています。
タンジール島は、とても貧乏でした。
祖父は医者でしたが、患者は、貧しい農民や漁民ばかりです。ですから、診察代は、扁桃腺を取ればブタ数匹、子供の病気を治療すれば鶏卵で、貯蓄もできない苦しい生活でした。
その祖父は、若くして他界しました。ですから、父は、祖母と、小さな土地が生み出すわずかな食糧で生活し、幼い頃から苦労を重ねたのです。
しかし、父は、優秀な学生に成長しました。16歳のとき、2段階特進で大学へ進学しました(メリーランド大学で学士号・修士号修得)。
そのとき、父の純真さを物語る話があります。
大学から「歓迎ダンスパーティー」の招待状をもらっても、そこに書かれてある「タキシード着用」の意味が全く分からなくて、級友たちに「田舎者!」と、笑われたのです。
こんなささやかなエピソードを、あえてご紹介したのには、理由があります。
それは、父が、貧困をよく理解していたこと。そして、「純真とは、必ずしも悪いことではない」と考えていたことです。
沖縄は、第2次世界大戦によって焦土と化し、ひじょうに貧しい島になってしまいました。
父は、そんな沖縄が、自分のバックグラウンドであるタンジール島と重なって見えたのではないでしょうか。
恐らく、父の生い立ちそのものが、沖縄にこだわり続けた大きな理由だったのではないか。私には、そう思えてならないのです。
父は、率先して、沖縄の産業振興をお手伝いする仕事に取り組みました。
しかし、父の考え方や行動は、軍事優先政策をとっていた当時のユースカーから、必ずしも賛同を得られたわけではありませんでした。
そうした厳しい状況のもとでも、父は、自分の人生を掛けて、なんとかして産業を興そうとしている沖縄の純真な友人たちのために奮闘し、多くの産業を興すことに助力し、ついに成功したのです……。

 

 

「チムグリサン、か……」

 

ジュニア氏の来沖記念式典で、だれかがポツリと独り言をつぶやきました。

 

チムグリサンとは、沖縄の方言です。日本の言葉で置き換えようとすると、一語ではうまくいきません。

 

あえて表現すれば、「見るに忍びない相手の状況に接して不憫に思い、他人事とはとても思えず、こちらの胸が苦しくなってしかたのないさま」というところでしょうか。

 

そんな思いを胸に秘めていたオグレスビー氏は、ペリー艦隊が1853年に上陸した地で、いまはすっかり、沖縄の土になっています。
(了)

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

*弊社ホームページは故障のため、写真データを掲載できなくなってしまいました。文字データのみの発信が当分続きます。しばらくお待ち下さい。 _(_^_)_

 

◆サイト内の文章・画像等は、すべて無断転載を禁じます。



関連記事