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第10回 『かぎやで風』の秘密

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「いやぁ、良かったですよ!……琉球舞踊の才能もあったんですね、カコちゃんは!」

 

蟹青年が、演舞を終えてテーブルに戻ってきた礼服姿のカコちゃんを絶賛した。

 

「琉装も似合ってましたよ!……ホント、昔の琉球のお姫様は、こんな感じだったんだろうなぁって!」

 

ここは、村立公民館の大ホール。『純喫茶うちなーたいむ』の近隣にあるペンションのオーナーが再婚し、その披露宴が行われている。

 

蟹青年は、沖縄の結婚披露宴に自分も出席できるとは夢にも思っていなかったので、大いに感動し、そして、招待客の数の多さに度肝を抜かれていた。

 

祝い酒で顔が少し赤くなっているマスターが、蟹青年に笑顔を向けた。今日のマスターは、ストライプの効いたバーバリー・スーツをびしっと着こなしている。

 

「カコちゃんが披露してくれた『かぎやで風(カジャデフー)節』はね、ウチナーンチュのお祝い事に、絶対に欠かせない楽曲なんだよ。だけど、『かぎやで風節』の《かぎやで》とは何か……となると、知らない人がけっこう多いんだな。……カコちゃんは、知ってた?」

 

「いいえ。……《かりゆし》みたいな意味なのかしら」

 

「うん。確かに、かくまで立派な果報……という説もある。……しかし、1795年に編集された、現存しているなかで最も古い琉歌集(琉歌百控乾柔節流)にはね、アタガフヌツィチャスィイミヤチョウンンダンカヂャディフヌツクイビタトゥツィチャサ……とあって、題目は『嘉謝手風節』と記されている」

 

蟹青年が、小さな目をパッチリ開いた。

 

「なんですか、いまのウチナーグチ(沖縄方言)の部分……」

 

マスターは、目の前のビールグラスを横に置き直すと、コースターをひっくり返し、ボールペンで何やら書き始めた。

 

 

安多嘉報(思いもよらぬ大果報)
の付す夢やうん見ぬ
嘉謝手報のつくへ(鍛冶屋手ふうの作り方)
べた……と付さ

 

 

蟹青年は腕を組んだ。

 

「カギ括弧のお陰で、鍛冶屋が登場したのは分かりますが、意味がいまひとつ……」

 

「この琉歌はね、鍛冶屋がつくったといわれているんだ。奥間カンジャーという有名な人物でね。《第二尚氏》初代の王・尚円(金丸)が国頭按司にとりたててくれたとき、その喜びを表したそうなんだ。……意訳すると、こんな感じかな」

 

マスターはまた、コースターの裏に書き始めた。

 

 

思いもよらない大きな果報がわか身に付くことは、夢にさえも見なかった。ところがいま、鍛冶屋の手に掛かって鍛えられる作り方のように、果報が、べたっとわが身に付いたのだ。

 

「『かぎやで風』は、つまり《鍛冶屋手ふう》。この琉歌は、琉球国王の前でうたわれ、21世紀に入っても、結婚披露宴はもちろん、大事なお祝い事には必ず、オープニングで披露されている。いつしかみんな、気がつかなくなってしまったけれども、実は、琉球王国の繁栄と鉄が、切っても切れない関係にあったことを暗示している琉歌なんだよ」

 

カコちゃんが身を乗り出した。

 

「いま、尚円の名前が出てきましたけど、《第一尚氏》王統を築いた尚巴志にも、自分の刀をヤマト(本土)の海商に売って鉄を買い、それで農具をつくり、お百姓さんたちを喜ばせた……って伝説がありますよね」

 

「その通り。その前の王統を築いた察度にも、鉄をめぐる伝説がつきまとうし、さきほどの琉歌をうたったとされる奥間カンジャーは、察度の義弟にあたる……という伝説も、奥間集落にはあるんだよ。それから、勝連按司・阿麻和利の家臣も、奥間カンジャーから鍛冶技術を学んだ……と言い伝えられているな」

 

蟹青年が口を開いた。

 

「尚円が、その鍛冶屋を按司に取り立てたのは、やっぱり、製鉄技術が狙いだったんですか?」

 

「尚円こと金丸を、奥間カンジャーが守ったからだ……という伝説がある」

 

「えっ?……どういうことですか」

 

「若き日の金丸は、故郷の伊是名島で迫害されて国頭に渡ったんだけれども、国頭でも住民の迫害を受けたそうなんだ。そのとき、奥間カンジャーが身をもって金丸を守ったとか。……しかし、金丸という名前の《金》も鉄を連想させるし、二人は、そもそも鉄で結びついていたような匂いがするなぁ」

 

「そういえば……」

 

カコちゃんが、遠くを見るような目で呟いた。

 

「……園比屋武御嶽(そのひゃんうたき=ユネスコの『世界遺産』に指定されたグスク関連史跡のひとつ)にも、鉄の神様(金の御筋の御前)がおまつりしてありましたね。《第二尚氏》が、いかに鉄を重視していたか、分かるわ……」

 

蟹青年が、顔を、カコちゃんからマスターに移した。

 

「でも、その鉄の原料は、どこから仕入れたんですか。沖縄に、鉄鉱石なんかありましたっけ?」

 

マスターは、苦笑した。

 

「沖縄には、鉄をつくれるような鉄鋼石も、砂鉄もないよ。タタラ炉が築かれた形跡もないし、タタラ炉をつくるための粘土、タタラ炉を運営できるだけの燃料も恵まれていない。だから、鍛冶屋がトンチンカン、トンチンカン……と鍛えた鉄は、原料になる鋼の塊を、よそから輸入していたことになる」

 

「もしかして、硫黄や馬の見返りとして、中国からもらっていた?」

 

蟹青年が、意気込んで仮説を述べた。

 

マスターは再び苦笑した。

 

「察度の時代のエピソードなんだけど、李浩が1374年に来琉し、鉄器1000、陶器7万を以て馬および硫黄と商う……という記録が、中国側に残っている。また、『免(みん)の大親』という伝承もあるな。中国で鍛冶技術を覚えた人が琉球に戻ってきて、鍛冶屋を始めた……」

 

「やった!」

 

蟹青年は膝を叩き、どんなもんだい!……とばかりに、カコちゃんに笑顔を向けた。

 

「……ところがね。李浩が持参したのは鍋釜(鋳物)のたぐいで、鋼物の輸入は少なかったようなんだ。というのは、当時、中国では、鉄の輸出は禁止されていて、その法を犯すと厳重に処罰されたんだ。周辺諸国の戦闘能力を高めるリスクを回避しよう……という国策だよ。もう一つ言えば、中国は、製鉄の原料として輸出できるほど、鋼が余っていたわけではないんだ。逆に、進貢貿易で琉球から日本刀を受け入れた。これは、宝物や武器としてではなく、製鉄の原料としてだったようだね」

 

「このあいだ、どこかのグスクの周辺で、鉄滓(てっさい)が出た……って記事が新聞に載っていましたけど、じゃあ、その鉄滓の素材は、中国からのものではない……ってことですね」

 

カコちゃんが質問すると、蟹青年も畳み掛けた。

 

「ん?……鉄滓って、そもそも何ですか?」

 

「鉄滓っていうのは、金糞(かなくそ)のこと。トンチンカン、トンチンカン……と鉄を鍛えたときに飛び散ったものだよ。沖縄の各地で出土した鉄滓を、精密に科学分析したレポート(『沖縄産業史 自立経済の道を求めて』古波津清昇著に掲載)があるんだけど、調査した鉄滓のすべては、鍛冶タイプで、タタラ製鉄によるものはなかった。素材の原料については、砂鉄系と鉱石系の両者があり、複数の産出地から搬入されたものだということも分かった。ちなみに、作家の司馬遼太郎氏は、沖縄の鍛冶屋が鍛えた鋼の塊は種子島から持ってきたものが大半だったんじゃないか……なんて、『街道をゆく~種子島みち』(朝日新聞社)で記しているね」

 

「《アマミキヨ》って神様は、もしかしたら、種子島と関わりのある人たちのことだったのかなぁ」

 

蟹青年が、ぽつりと呟いた。

 

「考えてみれば、グスクの石だって、硬い鉄がなければ削れませんね。……《野面積み》はともかく、《布積み》《相方積み》のグスクの石となると」

 

カコちゃんも、つられるように感想を述べた。

 

マスターがうなずいた。

 

「《野面積み》の今帰仁グスクにも、切れ味鋭い妖刀『北谷なーちらー』で削った石でつくった……という伝説があるよ。だから、沖縄の歴史・文化を象徴する《グスク文化》は、鉄なしには語れない……と言っていいな」

 

「グスクに、鉄をめぐる物語が、どっぷり眠っていたのかぁ……」

 

蟹青年が感慨深げに呟いたとき、ステージの近くで、司会者が演壇に立った。

 

どうやら、余興が始まるようだった。

 

(続く……次回は、ぐっと間を空けて2006年春予定)

 

*写真は、15世紀前半に護佐丸が築いた座喜味グスク。山田グスクの石を手渡しで運んで築城したという。クリックすると、拡大します。

 

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、地元日刊紙が05年に発刊した別刷特別号(タブロイド判)の、いわば《原本》にもあたります。第1稿が完結して歳月がだいぶ経過していますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナ~(ぼちぼち)連載していきます。



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第9回 最優秀助演賞は中国系か

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それから数日後のことだ。

 

図書館から「純喫茶うちなーたいむ」に戻ってきた蟹青年が、小さな目をぱっちりと見開いてカコちゃんに言った。

 

「このあいだ、マスターがラジオで、明国が進貢貿易を許したのは、琉球の軍需品が欲しかったからだ……っていうハナシ、してたでしょ」

 

「硫黄と馬よね」

 

「それそれ。いま、村立図書館へ行って、調べてきたんだけど……」

 

そう言って蟹青年は、数枚のコピーを広げてみせた。

 

「1470年の明国への朝貢品をみると、馬15匹、硫黄2万斤、象牙400斤、束香200斤、胡椒400斤などなど……。馬と硫黄は、琉球産。あとのは、東南アジア産。硫黄は、進貢貿易の初めから、琉球王国がなくなる頃の1874年まで贈られているんだよね。馬は、1680年まで。その後は、薩摩藩経由で手に入れた錫に替わってる」

 

蟹青年のコピーを手にしたカコちゃんも、口を開いた。

 

「夜光貝の殻(螺殻)は1425年頃から登場しているのね。1回の朝貢で3000個も!……でも、1690年に朝貢品から除外されてるわ。たしか、明国が滅亡したのは、1644年。明国にとっては貴重な螺殻も、清国には無用だったのかしら。琉球産の馬も、そのケースかもしれないわ。騎馬軍団で明国を滅ぼしたような国ですもの、清国は。馬をイヤというほど持ってるはず」

 

「なんか、ショックなんだよなぁ」

 

「どうして?」

 

「琉球っていうと、平和外交……っていう感じの先入観があるからかなぁ。軍需品が、進貢貿易のきっかけだったなんて」

 

「当時は、《左三ツ巴紋》の時代……つまり、海商たちの時代、倭寇の時代だったって、マスターも言ってたじゃない」

 

「図書館で考えたんだけど……。琉球は、海商たちというか倭寇にとって、大陸へ進出するには理想的な拠点にみえたと思うんだ。一方で、明国にとっては、火薬の原料になる硫黄の産出地だし、ここを手なずければ、倭寇の要塞を、倭寇に対する防波堤に転換もできる。明国が手を差し伸べたのは、そのあたりに理由があったんじゃないかなぁ」

 

「そうねぇ……」

 

カコちゃんも思案顔になった。

 

「海商たちにとっても、それほど抵抗がなかったかもしれないわ。琉球で大陸並みの交易ができれば、わざわざ黒潮を横切らなくて済むもの。これは大きかったはずよ。黒潮を横切ろうとして、だいぶ遭難したっていうからね。だから、唐旅(とうたび)……って言葉が沖縄には遺っているの」

 

「唐旅?」

 

「死ぬことを、唐旅へ行った……って表現があるくらいなの。それでも、琉球側は、明国から大型船をもらっているから渡りやすいわ。航海術や貿易のハウ・ツーに長けた中国人スタッフも付いていたかもしれないし。それが、〈久米三十六姓〉だったんじゃないか……って言う人もいるわ。でも、日本からやってきた海商たちの船は、かなり命懸けだったはず。やっと渡ったからには、荒稼ぎもしたくなったでしょうね」

 

「そうか!……琉球を《フリー・トレード・ゾーン》みたいにしておけば、明国にとっては、自動的に倭寇対策というか、国防策になったわけか」

 

「そのうち、琉球は、尚真というすごい王様が登場して、《嘉靖の栄華》を迎える。琉球王国は、《左三ツ巴紋》の素顔を消して、外面は、繁栄をもたらしてくれる明国に合わせた容貌に転換していく。そして内に向けては、ノロを組織化するなど復古調の容貌で、中央集権化を推し進めていく……。これが、マスターの説だったわね」

 

「さっき言ってた〈久米三十六姓〉じゃないけど、琉球を統一した尚巴志の国相を務めた懐機……とか、けっこう中国人たちが活躍したみたいだね。《客家》系の人たちのようだ……なんて書いてある本もあった」

 

「そういえば……。英祖王統の御陵『浦添ようどれ』の人骨のなかに、大陸系の女性の骨がみつかったって。《古琉球》の時代は、大陸への水先案内人のような人たちや、明国とコネクションのある人材が、とっても貴重だったんでしょうね」

 

「《左三ツ巴紋》の時代を終わらせたのは尚真だ……ってマスターは言ってたけど、実働部隊は、琉球人になった中国人かもしれないね。……彼らの子孫はいま、どうしているんだろ。華僑みたいな感じで残っているの?」

 

「〈久米三十六姓〉ゆかりの人たちのことを、久米村の人……とか、クニンダー……なんて言うけど、すっかりウチナーンチュになっているわ。世界中に散らばっている華僑のなかでも、珍しいケースらしいわよ」

 

「ねぇ、島津の琉球侵攻(1609年)があったとき、その〈久米三十六姓〉の人たちは、どんな様子だったんだろ」

 

「その事件は、《古琉球》が幕を降ろした出来事なんだけど、琉球側の政治責任者だった三司官(さんしかん=国政を司る3人の宰相)の一人が、謝名(じゃな)親方。久米村の人なの。鹿児島に連行されて、処刑されてしまったわ。島津の侵攻後、50年くらい混迷した歳月が続くんだけれども、そんな時代を収拾した政治家に、羽地朝秀(向象賢)という摂政(首相)がいたの。史書『中山世鑑』の編述者で、王家ゆかりの人物なんだけど、その後継者にあたる三司官・蔡温(さいおん)が、これまた久米村の人。哲人政治家……っていう尊称があるわ」

 

「《古琉球》の幕引きも、《近世琉球》の幕開けも、中国系の人たちが、重要な脇役を演じていたんだなぁ」

 

「さっき、《第一尚氏》を補佐した懐機の名前を出してたけど、中国系の人々のなかには、琉球王国にとって、最優秀助演賞ものの活躍をした人が、少なからずいたみたいね」

 

そのとき、「純喫茶うちなーたいむ」の扉が開き、マスターが帰ってきた。

 

マスターは、二人の空気を察したのか、

 

「おっ、熱い論議をやっているようだね」

 

笑顔をつくりながら、白い紙箱をカウンターに置いた。

 

「今度オープンするリゾートホテルのパテシエと、すっかり話し込んでしまってね。ずいぶん東洋史に詳しい人なんだ。先祖は、クニンダーだって。……それ、おみやげ。ウチにクッキーづくりの名人がいるって自慢したら、試食してみてくれって。レアとスフレと、焼いたチーズケーキが入ってるそうだよ」

 

(続く)

 

*写真は、ロワジールホテルに隣接するミーグスク(三重城)で見掛けた母子。琉球王国の玄関口は那覇港。ミーグスクから船を見送る風情は、琉歌にも詠われている。
クリックすると、拡大します。

 

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、地元日刊紙が05年に発刊した別刷特別号(タブロイド判)の、いわば《原本》にもあたります。第1稿が完結して歳月がだいぶ経過していますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナ~(ぼちぼち)連載していきます。



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第8回 捕虜の琉球国王が描いた肖像画

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ある日のこと。

 

すっかり「純喫茶うちなーたいむ」の一員になってしまった蟹青年が、お客様たちが使ったコーヒーカップを、お盆に片づけながら、

 

「ねぇ、カコちゃん……」

 

と、声を掛けた。

 

奥のカウンターでテーブルを拭いていたカコちゃんが、手を休めて振り返った。

 

蟹青年は、お客様がテーブルに置きっ放しにした本を持ち上げてみせた。

 

「まえから気になってたんだけどね。この本、なんで、このお店にいつも置いてあるんだろ」

 

表紙に、『ザ・フォト 祇園祭  京都書院刊』とある。

 

「祇園祭は、京都だよ。自分も見物したことあるけど、沖縄と、関係ありそうもないけどなぁ」

 

祇園祭は、起源が1000年以上もさかのぼるといわれ、タペストリーに凝った31もの山と鉾が、美しい古都を練り歩くことから、《動く染織美術館》などと賞賛されている……と、あるウェブサイト (^_^)/ では紹介している。

 

「さすがに記者志望ね。鼻がきくみたい」

 

カコちゃんは、意味ありげに笑って見せると、マスターに聞いてごらんなさい……とばかりに、目を少し大きく開いて顎をそちらに向けてみせた。

 

聞き耳を立てていたのか、マスターが咳払いをした。

 

マスターは、こんな話から切り出した。

 

「私はね、祇園祭というと、あの有名な山鉾巡行よりも、宵山(前夜祭)の光景のほうが先に思い浮かぶなぁ。宵闇が迫る頃、山鉾はそれぞれ、提灯に明かりを灯し、祇園囃子を奏で、明日の巡行を待つんだ。山鉾を管理している町家はそれぞれ、前掛け・見送り・水引などのタペストリー、そして、自慢の屏風を公開するんだけれども……」

 

そこで、マスターは、目を細めた。

 

「たいてい、その町家は老舗でね。そんな町家へ、浴衣に着替えた京都市街の若いOLや学生さんたちが、鈴の音をさわやかに立てながら、訪ね歩くんだ。その新旧のコントラストがとても新鮮で、私にとって宵山は、鈴の音のニライカナイ……のような」

 

そのとき、カコちゃんが、蟹青年に悪戯っぽく囁いた。

 

「マスターの趣味、だいたい分かるでしょ?」

 

その声にマスターは、

 

「……もう、20年ほども前の話さ。いまは、浴衣なんか、みんな着なくなっているかもしれない」

 

珍しく、赤面しながら言い訳をした。

 

「私が祇園祭に出掛けたのは、山鉾のひとつ《黒主山》をめぐる取材でね。《黒主山》は、満開の桜をうわっと仰ぎ見る大伴黒主がご神体の山(御輿のように担ぐタイプ)で、前掛け……つまり、山の前面に飾られるタペストリーが、琉球ゆかりのものなんだ。デザインされているのは、龍。1600年代の初頭に、〈第二尚氏〉7代目の王・尚寧が、日本の僧・袋中(たいちゅう)上人に贈ったんだよ」

 

「へ~え!」

 

蟹青年は感嘆すると、再び驚きの声を挙げた。

 

「あれっ!……尚寧っていうと、たしか、島津の侵攻に遭ったときの王様でしたよね?」

 

マスターはうなずいた。

 

「いまから400年ほど前の、1603年のことなんだけれども、磐城国(福島県)出身の浄土宗の僧・袋中が、琉球に漂着してしまったんだ。中国を目指して渡海したんだれどね。そして袋中は、漂着した琉球に仏縁を感じたのか、浄土念仏の教化につとめたんだ。その結果、国王の尚寧をはじめ、儀間真常など当時の経済人・文化人が帰依したらしい。……あ、そうそう。君は、エイサーを知ってるかい?」

 

「もちろんですよ!……エイサーは、東京でも『新宿エイサーまつり』をやってるほど人気ですよ。姉が勤務している小学校の学校行事にも、採用されたくらいですからね!」

 

「そのエイサーの起源は、袋中が伝えた盆踊り(念仏踊り)ではないか……という有力な説もあるんだよ」

 

「そうなんですか!……ぐっと、身近な感じがしてくるなぁ」

 

「しかし、袋中の一番の功績は、なんといっても、『琉球神道記』などを記したことなんだ。《古琉球》を知るうえで、極めて貴重な文献……と評価されている。源為朝が舜天の父……という、興味深い一文もあるからね」

 

「袋中は、どのくらい滞在したんですか、琉球に」

 

「およそ3年。帰国したのは1605年。その4年後に、島津の琉球侵攻……が起きている」

 

「う~む。……《古琉球》のギリギリに、滞在してたわけだぁ」

 

「侵攻後、尚寧は、島津によって囚われの身になり、《江戸のぼり》をさせられたんだ。徳川家康・秀忠に謁見するためにね。その途上、恐らく京都で、袋中と再会を果たしたようなんだ。そのときの贈呈品も含めて、尚寧は袋中に、琉球滞在中からいろいろな品を贈っていて、その大半は現在、京都国立博物館に納められてる」

 

「すると、《黒主山》の龍の前掛けも、その頃に贈られた品ってわけですか」

 

「その通り。現在はレプリカが使用されてるけれども、私が取材した当時は、四つ爪の龍……本物の《四爪飛龍波濤文の綴錦》でね。かなり傷んでいたけど、明代の貴重な史料だ!……と専門家は折り紙をつけてた」

 

「でも、なんで、《黒主山》に?」

 

「袋中が開山した『檀王法林寺』の檀家のなかに、黒主山の関係者がいて、寄付を依頼したらしい。実際、寺には、《黒主山》に贈ったことを示す〈寄付証状〉や、《黒主山》からの〈受領之証〉が残っている」

 

そこまで言うと、マスターは息をひとつ吐き、数秒だったが沈思した。

 

「実は、一連の取材で、謎が残ってるんだ。……ちょっと待っててね、カコちゃんにも見せたこと、まだなかったっけな」

 

マスターは、そう言い残すと、なにやら資料を取りに行った。

 

まもなく戻ってきて、蟹青年に差し出したのは、『特別陳列 袋中上人と檀王法林寺』(京都国立博物館発行)の案内冊子だった。

 

「一番最初のページを開いてごらん。『袋中上人像』が載ってるでしょ。この肖像画は、尚寧の直筆……とされているんだ」

 

「……ずいぶん、ずんぐりとした、怖そうなお坊さんですね!」

 

「《賛》に記してある〈辛亥〉〈春三月〉は、1611年春。……ということは、《江戸のぼり》を済ませた尚寧が琉球へ帰るために、薩摩に滞留した時期に当たる。つまり、袋中との再会を果たした後、その印象に頼って描いたようなんだ。そして、どんなルートを使ったか不明だが、京都にいる袋中に贈った」

 

冊子を覗いたカコちゃんが口を開いた。

 

「人物画は、描いた人に似る……っていうけど。王様が描いたとは思えないほど厳しい感じ。体全体から、重厚な迫力が発散しているみたい」

 

マスターはうなずいた。

 

「そこなんだ、謎は。本当に、尚寧が描いたのだろうか。……でも、もし、尚寧が、本当にこの肖像画を描いたとすると、帰国に臨むにあたっての心中が伝わってくるような気もする。なぜ島津の言いなりになってしまったのか!……という、批判の声に耐えようとする、ある種の悲壮感……というか」

 

「尊敬する袋中上人の姿をお借りして、心の拠り所にしよう……としたのかしら」

 

カコちゃんが感想を言うと、蟹青年が腕組みをし、小さな目をパッと見開いた。

 

そして、

 

「袋中上人に送ったんだから、自分の心情を、肖像画に託して、伝えようとしたのかも」

 

と、呟いた。

 

「それにしても……」

 

マスターが再び口を開いた。

 

「尚寧と袋中上人の思いがこもった龍が、いまも古都を往く。……残るというだけで、たいへんなドラマだね」

 

蟹青年とカコちゃんは、同時に頷いた。

 

〈続く  次号(第9回)は「2」に載っています〉

 

*写真は、尚寧が描いたとされる『袋中上人像』の一部。クリックすると、拡大します。

 

◎関連の記事として、「レポート&エッセー」中の『京都・祇園祭のなかの《古琉球》』(05年7月14日)をどうぞ。

 

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、地元日刊紙が05年に発刊した別刷特別号(タブロイド判)の、いわば《原本》にもあたります。第1稿が完結して歳月がだいぶ経過していますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナ~(ぼちぼち)連載していきます。



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