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第7回 「薩摩侵入」後のスクヂカラ(底力)

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マスターが「《左三ツ巴紋》の時代」をテーマに「オーシャンビュー・スタジオ」でおしゃべりをした、その日の11時過ぎ。

 

純喫茶うちなーたいむで、白髪の上品なご婦人が一人、腰を降ろした。

 

「ホットコーヒーをひとつ。……こちらのコーヒー、おいしいんですってね、ペンションのオーナーに聞いたわ」

 

その言葉に、カコちゃんは満面の笑みを返した。

 

二人の様子をそっと観察していた蟹青年が、マスターにささやいた。

 

「昭和天皇の、皇后様みたいな感じのお客さんですねぇ」

 

蟹青年は、マスターとお揃いのエプロンをつけている。自称・見習い……だ。

 

貴婦人は、マスターが心を込めて入れたコーヒーに、ほんの少しだけミルクを落とし、ゆったりと、満足げに召し上がった。

 

眼下の大海原にしばらく目をやっていた貴婦人は、やがて、カコちゃんに眼差しを向けると、ちょっとお願い……という頭の下げ方をした。

 

「こちらのマスター、いま、お手透きかしら。……けさのラジオ、拝聴したんですけど」

 

「まぁ、そうだったんですか。……少し、お待ちください」

 

自分に向けたカコちゃんの表情を読んだマスターは、エプロンをはずした。

 

貴婦人は、鹿児島出身で、結婚以来、ご主人が亡くなられてからもずっと東京暮らしだという。

 

「実家にも、江戸時代に琉球から持ち帰ったという堆錦の重箱があるのです。鹿児島は昔、琉球に酷いことをしてしまいましたからね。どうも敷居が高くて。……でも、今朝の放送を聞いていて、鹿児島の事情も分かろうと勉強してくださっているんだなぁ、どんな方なのかしら……って、会ってみたくなってしまったんですの」

 

さすがのマスターも、なんとも言えぬ優雅な気品に押されていた。

 

「いまでも、沖縄の方は、鹿児島を恨んでいらっしゃるのでしょうね」

 

貴婦人のその言葉に、マスターの傍らにいたカコちゃんはいたたまれなくなったのか、

 

「いえ、そんなことはありませんよ。……私の母なんか、定岡投手の大ファンでしたよ」

 

と、懸命に打ち消した。

 

マスターは思わず笑みをつくると、ちょっとお待ちくださいね……と呟いて、貴婦人に背を向けた。

 

やがてマスターは、貴婦人の前に、一冊の冊子を置いた。

 

「私は、こういう仕事をしていますので、飲み物に関わることならなんでも関心を寄せてしまうのですが……。数年前に、『茶の湯で心をつなぐ鹿児島・沖縄文化交流記念シンポジウム』(主催・茶道裏千家淡交会沖縄支部)という催しが那覇市内でありました。その冊子は、そのもようを、記念誌としてまとめたものなんです」

 

貴婦人は手に取り、表紙を眺めた。

 

「茶の湯で心をつなぐ?」

 

「そうです。薩摩に対して、いまだに複雑な感情を抱く方が、たしかに沖縄にはおります。島津の琉球侵攻(1609年)は、沖縄にとって強烈な出来事でしたからね。役人は自暴自棄になり、民衆は、掟十五条……に基づいた上納で、塗炭の苦しみを強いられましたので。ある研究によりますと、貢納の配分は、国王・王府へ約31%、薩摩へは約42%だったそうです。……いかに、負担が大きかったか」

 

カコちゃんが眉間に皺を寄せて、マスターの横顔をみつめた。

 

マスターは続けた。

 

「そのシンポジウムは、千利休から受け継ぐ〈一盌のお茶〉の心によって、鹿児島と沖縄を結び、共に平和を求める機会にしようというものでした」

 

「〈一盌のお茶〉の心……」

 

「そのシンポジウムで、沖縄の底力を考えさせられるお話を、鹿児島と沖縄を代表する歴史家が、それぞれなさいました。……お二人の話によりますと、島津の琉球侵攻から半世紀ほどの間、琉球はかなりすさんだようです。後遺症ですね。しかし、その後、ウチナーンチュ(沖縄の人間)はパワーを取り戻していく。その沖縄の再生について、お二人は、すばらしいお話をなさいました。……お読みになってみてください。もう一杯、今度は、薄めのコーヒーを入れてきますから」

 

   ■鹿児島大学法文学部・原口泉教授の話■

 

薩摩藩が支配していたから文化が生まれなかったわけではなくて、そんな厳しい時代だからこそ、沖縄の方々は身のまわりをご覧になり、沖縄の良さに気づき、琉球漆器の改良をはじめ、素晴らしい芸術作品を生み出されたのだと思います。

 

ミンサー、芭蕉布、宮古上布、壺屋焼もそうですね。

 

《古琉球》の時代に、たしかに螺鈿細工や漆器もある域には達しておりました。

 

でも、それがもう一段、何といいますか、更に洗練されて素晴らしい芸術作品になりました。

 

文化的な自立ができたのだと思います。

 

つまり、中継ぎ貿易ができなくなった江戸時代に、沖縄の方々は、初めてご自分の土で焼物を焼き、より優れた全く独自な物を生みだしたのです。

 

われわれ(本土の人間)は、高度経済成長やバブルのときには、コストが安いので外国から安い原料を買ってきてそれでつくり、日本の素晴らしい素材を生かすことに努力がやや足りませんでした。

 

沖縄の江戸時代は、私ども高度経済成長の日本が忘れかけていた生き方、つまり、手間暇掛けて人や物をつくることが大事なのだ……と、大きな警鐘を鳴らしているのではないかと思います。

 

■琉球大学法文学部・高良倉吉教授の話■

 

現在、沖縄県民が自慢する沖縄の伝統文化というものは全部、侵攻以降につくられました。

 

踊りも音楽も、さきほど(原口教授が)琉球漆器が磨かれたとおっしゃいましたけれども、赤瓦の屋根を持つ住宅建築、サトウキビ畑を開いて黒砂糖をつくる産業も始まりました。

 

お仏壇にお位牌を置いて祖先をまつる風習もそうです。

 

とにかく、沖縄県民が伝統文化と言っているものは全部、侵攻以降にできたのです。つまり、沖縄は再び自分を取り戻し、新たな沖縄をつくっていくパワーを発揮したのですね。

 

そういう時期は、鹿児島とは政治的・行政的な関係だけではなくて、人と人の交流を通じて、鹿児島の人たちが持っているメンタリティーや文化を学び、あるいは逆に、沖縄の人たちも鹿児島に行っておりますので、鹿児島の方にも影響を与えたと思います。

 

沖縄は文化をあらたにつくり、創造してきました。

 

昔のものをそのままだらだらと続けたのではなくて、確かに侵攻後50年間は辛かったけれども、それ以降は自分を取り戻し、新たな活力をつけて、これが現在につながる沖縄の伝統文化になったのです。

 

「逆境から踏ん張ったんですね。沖縄の、文化の担い手の皆さんは……」

 

入れたばかりのアメリカン・コーヒーをマスターがそっと置くと、貴婦人が呟いた。

 

マスターは笑みを返した。

 

「沖縄ではこれまで、伝統文化の担い手たちが、いつ、どんなときに、いかに奮起したか……が、あまり語られてきませんでした。私も、会場でハッとしましたよ」

 

冊子を借りて、遅れて読み始めていたカコちゃんが顔を上げた。

 

「マスターが、コーヒーカップを沖縄の焼物にこだわる理由も、分かったような気がする……」

 

マスターは、うれしそうにうなずいた。

 

「……でも、保温性という面では、問題があってね。陶器は温まるまでに時間が掛かってしまんだよ。その点、磁器のほうが、使いやすいんだ」

 

そのとき、貴婦人が呟いた。

 

「大好きですよ、この器」

 

そして、まるで抱きしめるように、両手でコーヒーカップを包み込んだ。

 

「気に入ってくださって、ありがとうございます。これは、壺屋焼……です。ご先祖様のご縁のお陰で、沖縄の地にしっかり根づいたヤチムン(焼き物)です」

 

(続く)

 

*写真……この写真、どこかで見たことがあるぞ!……と思った方、かなりいらっしゃるのではないでしょうか。
沖縄のガイドブックやポスターなどに、たびたび登場する光景ですから。
この《新垣家のシーサー》は、ヤチムンの街・壺屋の、象徴的な景色のひとつです。
壺屋は、那覇市内の観光名所「平和通り」の終点に隣接しています。
最近は、「ヤチムン通り」とも呼ばれています。
街の歴史を少し、ひも解きますと……。
『球陽』という琉球王国の正史の、1682年の項に、次のような記述があります。

……昔、壺屋は、美里の知花と首里の宝口、那覇の湧田の三ケ所にあり、その陶窯を、牧志村の南に移して合併させた。

1682年といいますと、日本では、徳川幕府5代将軍・綱吉が、犬や鳥獣の保護を命じた「生類憐れみの令」を出した頃(1685年)に当たります。
合併以来、壺屋の街は、琉球陶器の一大生産地となりました。
あらゆる種類の陶器が生産され、琉球王国に住むすべての階層の人々の生活に密着していきました。
壺屋焼の製法は、17世紀に薩摩経由で琉球にやってきた朝鮮人陶工の技術をメインに、遠く大交易時代がもたらした南蛮焼の技術なども注ぎ込まれているといわれています。

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、地元日刊紙が05年に発刊した別冊特別号(タブロイド判)の、いわば《原型》にもあたります。第1稿が完結して歳月がだいぶ経過していますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナー(ぼちぼち)連載していきます。



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第6回 昔大和世=《左三ツ巴紋》の時代

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ヘッドフォンをつけたマスターが、防音ガラス越しに、R大学の学生を探した。

 

やはり、ナンチャン似の蟹青年は、丸くて小さな目をこちらに集中していた。

 

ここは、地元コミュニティーFM局の『オーシャンビュー・スタジオ』である。

 

蟹青年は、あれから2週間ほど滞在している。

 

大学は大丈夫なの?……と心配すると、大学よりもっと大事なことをしています!……と、困ったことに、尊敬の色を浮かべて答えるのだ。

 

 

蟹青年は、カコちゃんともすっかり仲良くなって、弟気分なのか、彼女に申しつけられるままに窓を拭いたり、外回りを掃いたりもしてくれるようになっていた。

 

今朝は、スタジオに来てみると、すでに蟹青年が待っていた。

 

「いやぁ、こういう放送にも、前から自分、関心があったんです」
頭を掻きながら、照れてみせた。

 

やがて、軽快なテンポの音楽が流れ始めた。

 

ディレクター兼技術さんが、キューを出す。

 

マスターは、マイクに向かって、おはようございます……と、切り出した。

 

番組は、午前7時から8時55分まで。
だが、今日……金曜日の8時半すぎからの約20分間は、「ビジターのための沖縄歴史ものがたり」というコーナーが設けられていた。

 

コミュニティーFM局の近隣には、ペンションやプチ・ホテルが多いため、観光客の皆様に沖縄の歴史や文化を紹介してくれるような番組を!……というリクエストが放送局にあったのだという。

 

 さて……。

 

前回は、沖縄のグスクが、《南走平家》の影響を受けているかもしれない……という大胆な仮説まで紹介させてもらいました。

 

そして、番組の最後は、こんな思わせぶりのエピローグで締めくくりました。

 

「あるシンボル・マークを翻して沖縄にやってきた人々も、グスクや、その主人(あるじ)である按司(あんじ・あじ)と大きな関わりがあるかもしれない。……いや、《古琉球》という時代の核になったかもしれない」と。

 

いま、私は《古琉球》という言葉を使いましたが、グスクが築かれるようになった11世紀末あたりから、1609年……つまり、薩摩の島津による琉球侵攻があった年までの期間を、沖縄では、《古琉球》と呼んでいます。

 

大雑把にその時代を俯瞰(ふかん)してみますと、11世紀末頃から沖縄各地にグスクが築かれるようになりました。

 

このあたりは、この番組で前回、解説しましたね。

 

14世紀に入りますと、各グスクの按司たちは連合するようになり、三人の強力なリーダーの傘下にまとまります。

 

その三人とは、今帰仁グスクを拠点に沖縄本島北部を支配した北山(ほくざん)、浦添グスクを拠点に中部を支配した中山(ちゅうざん)、島尻大里グスクを拠点に南部を支配した南山(なんざん)の按司たちです。

 

この三山(さんざん)は、1429年に、ある人物によって統一されます。

 

同じ年、ヨーロッパでは、ジャンヌ・ダルクがイギリス軍を破り、フランスを救っています。日本では、足利義教が室町幕府の6代将軍に就いています。

 

三山の統一チャンピオンは、首里グスクの按司・尚巴志(しょう・はし)でした。

 

どういう出自の人物だったかといいますと、民俗学者であり、歴史学者でもある折口信夫は、「九州の名和一族ではないか」と見ています。

 

名和氏は、南朝方の豪族ですね。

 

一方、歴史家の牧瀬恒二は、尚巴志の先祖といわれる屋蔵大主(佐銘川大主の父親)を「九州からはみ出た武士崩れ、あるいは前期倭寇の武士の小集団の首領」と推察しています。

 

いずれの仮説も、九州で起きた大動乱によってはみ出てきた……という点が共通しています。

 

その〈目のつけ所〉に、私は大いに感心します。

 

尚巴志は、父親を初代の王に立てて王統の礎を築きますが、7代目の尚徳の時代、日本では「応仁の乱」の最中の1470年頃に、金丸(かなまる)によって政権を奪取されます。

 

この金丸も、なにやら日本の匂いがする名前ですね。

 

新王統は、「尚」姓を残し、外交上、密かに〈第一尚氏〉と入れ替わります。

 

金丸は、尚円……と名乗るようになります。

 

〈第二尚氏〉は16世紀、3代目・尚真の時代になりますと、《大交易時代》を極め、「嘉靖(かせい)の栄華」と賞賛されます。

 

しかし、進貢する明国はやがて、衰退の一途をたどるようになり、一方、お隣の薩摩では、島津が、権力の集中をはかって力をつけ始めます。

 

1609年、琉球は、島津の侵略を受けます。

 

この事件は、「慶長の役」とも言いますね。およそ3000兵を率いて、琉球に攻め込んできました。

 

1609年……といいますと、「関ヶ原の戦い」の9年後、「大坂冬の陣」の5年前の出来事です。

 

島津は、「関ヶ原の戦い」のとき、石田三成の西軍に荷担したため、徳川家康に負い目を強く感じていました。

 

ですから、島津は、江戸幕府を創立し、天下人になった家康に対して、なんとしても信頼を獲得しなければなりませんでした。

 

加えて、財政の再建が迫られていました。

 

島津の財政は、豊臣秀吉との九州の覇権争い・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどの相次ぐ戦乱で、破綻していたのです。

 

そこへ、家康が、琉球の来聘を、かつては敵だった島津に任せる……という動きを見せました。

 

家康は、対外貿易に積極的で、琉球を幕府に従属させ、明国との貿易の復活交渉に利用しよう……と目論んだのです。

 

そのような背景のもとで、島津は、外交上の非礼などを名目に琉球侵攻を企てるのですが、実際に踏み切ったのには、もうひとつ、大きな要因がありました。

 

当時、薩摩内部の権力が、まだまだ分散していたのです。

 

藩主・家久のもとへ権力を一気に集中させる《きっかけ》が、なんとしても欲しかったのです。

 

ところで……。

 

ここからが、今回の本題なのですが。

 

《古琉球》という時代区分のうち、その大半は《左三ツ巴紋》の時代で、その時代を終わらせたのは尚真だった……と、私は推察しています。

 

時代背景に、次の2つの《激震》がありました。

 

☆蒙古襲来
☆南北朝の大動乱

 

まず、蒙古襲来……ですが、《激震》は蒙古襲来そのものにとどまらず、その反動……まで含まれます。

 

フビライ汗が、第3次日本遠征を計画していたのをご存知でしたでしょうか。

 

それに対する偵察や、先制攻撃こそが倭寇のはじまり……という説があります。

 

一方、南北朝の大動乱……は、応仁の乱と並ぶ、日本全域を激動させた事件です。

 

九州は、南朝の懐良(かねなが)親王が支配しました。

 

明国は1368~1381年の間、懐良親王こそが日本の代表だと思いこみ、外交使節を送ったほどの勢力でした。

 

しかし、北朝の今川了俊らが、やがて、九州から南朝方を駆逐していきます。

 

南朝方の落ち武者は追いつめられ、果たしてどこへ消えたのでしょう。

 

さて、この写真をご覧ください。
……といっても、残念ながら、ラジオでは見えませんね。

 

ご存知でしょう。お馴染みのシンボル・マークです。

 

源氏をはじめ、武将たちが好んで掲げた紋章です。

 

出自は、九州の『宇佐八幡宮』。

 

二度に渡る「蒙古襲来」で〈神風〉を吹かせた実績から、ますます、八幡信仰は武人たちに深く浸透し、神紋である《左三ツ巴紋》は戦場などで好んで掲げられました。

 

武人のなかには、武士崩れ……といいましょうか、半武人も含まれます。

 

たとえば、海商……と称される武装商人です。

 

商才がある武者崩れ。思い切って、枝葉を払って平たく表現し直してしまいますと、日本系の倭寇……です。

 

倭寇は、前期・後期に区分され、日本人が中心だったのは前期で、後期は「日本人のふりをした」大陸や朝鮮半島沿岸の人々が中心……などと解説する本もあります。

 

私が注目したいのは、13世紀後半から、王直(後期倭寇の代表的頭目で、鉄砲伝来とも関わりが深い中国人)が殺された16世紀の半ば頃まで、遅くても1600年の「関ヶ原の戦い」の頃まで、東シナ海が《倭寇の宇宙》だったことです。

 

ちなみに、倭寇の雄・松浦(まつら)党の末裔・松浦鎮信らは1599年に、〈八幡船の禁止〉に踏み切っています。「関ヶ原の戦い」の前年、島津の琉球侵攻の10年前にあたります。

 

倭寇……というだけで嫌われそうな気配がいまもありますが、その時代、東シナ海沿岸の民で、倭寇と関わりのない人は、果たしてどのくらいいたでしょうか。

 

倭寇のなかで、日本系は、《左三ツ巴紋》を翻していたようです。

 

彼らの船は、ある時期から、八幡船(ばはんせん)……と呼ばれました。

 

恐らく、その由来は、宇佐八幡宮と関わりのあるシンボルが戦旗になって翻っていたからです。

 

〈尚氏〉の家紋も、首里城などでご覧になったと思いますが、そう、同じ《左三ツ巴紋》ですね。

 

もう一枚、本当は見ていただきたい写真(「関連リンク」参照)があります。こちらは、泉州の中国人の交易船に掲げられていた幟(のぼり)です。

 

彼らは、東シナ海を渡って赤間ケ関(下関)で交易をしていました。

 

《左三ツ巴紋》が少し崩れたような図柄でしてね。東シナ海で出会った倭寇に向けて、仲間だから勘弁!……というメッセージがこもっていたのかもしれません。

 

もうひとつ、紹介しておきますと、琉球に侵入した島津も、実は、《左三ツ巴紋》と関わりが深い一族でした。

 

島津は、家久が藩主になった頃も内部の権力がまだまとまっていませんでしたが、とりあえず、統一した戦国大名としての島津家が成立したのは、1526年といわれています。

 

島津忠良が実権を握ったときです。

 

それまで島津は、内紛があまりにも繰り返されていました。

 

力を持っていた者のうち、忠良の三男・尚久は、坊津や枕崎を拠点とする「薩摩倭寇の巨頭」と目されています。

 

つまり、島津も、倭寇ととても深い関係があったのです。

 

さて……。

 

ここで、《左三ツ巴紋》時代の、琉球で起きた主なエポックを挙げておきましょう。

 

いずれ、それぞれ、お話しする機会があるかと思います。今日は、さらりと紹介します。

 

◎三山時代の直前に琉球にも蒙古襲来?……1291年と1296年にフビライ汗が「瑠求」を討つが失敗……と元の資料には記されています。

 

◎1372年、明国の太祖が楊載を遣わし招諭……これに対して中山王・察度は、明国へ進貢します。このとき、明国が貿易品として主に求めたのは、火薬に使う硫黄鳥島産の《硫黄》、武具あるいは運搬用として使う《馬》でした。《軍需品》が進貢貿易の主役だったことは、大いに注目です。

 

◎1429年、尚巴志が三山統一……尚巴志は、対馬の倭寇・六郎四郎とも関わりを持ちました。ちなみに、巴志のもとには、日本名のような武人で築城家の護佐丸(ごさまる)、中国人国相の懐機(かいき)など、国際感覚に長けていたと思われる腹心たちもいました。

 

◎1458年、「護佐丸・阿麻和利の乱」……「第一尚氏」6代目・尚泰久も加わった内紛です。ちなみに、阿麻和利が滅ぼした先代の勝連グスクの主は、望月按司でした。月と八幡信仰とは深い関わりがある……と折口信夫も指摘していますように、その按司は倭寇ではなかったか……と推察する歴史家が複数います。

 

◎1470年、クーデターによる金丸の政権奪取……尚円と名乗るようになった金丸の〈第二尚氏〉は、明治時代初頭まで君臨します。

 

◎「嘉靖の栄華」……〈第二尚氏〉3代目・尚真による16世紀初頭の繁栄期。《大交易時代》のシンボリックな時代です。《左三ツ巴紋》時代のエピローグの時期でもあります。尚真は、〈第一尚氏〉が仏寺の建立をするなど日本に近づくような試みをしたのに対し、沖縄古来の伝統を尊重して民衆を束ねる……という、いわば復古調の政治家でもあったようです。

 

《左三ツ巴紋》時代は終わっていますが、《古琉球》のピリオドになったエポックも挙げておきましょう。

 

◎1609年、島津による琉球侵攻……「嘉靖の栄華」時代のバランス・オブ・パワーが崩れた象徴的な出来事でした。島津は内部権力が集中していく最中、一方、明国は国力が衰退していく最中の事件でした。ちなみに、統一した戦国大名として島津忠良が島津家の実権を握った1526年は、「嘉靖の栄華」を築いた尚真が他界した年でした。この年が、ターニング・ポイントだったかもしれません。

 

ところで……。

 

《左三ツ巴紋》の時代は、残された史料が、あまりにも限られています。

 

ですから、「伝説の時代」だとか「神話の時代」などと呟いて残念がる研究者が少なくありません。

 

「〈第一尚氏〉の関連史料は、〈第二尚氏〉がことごとく消滅させたのだろう。尚巴志の墓だって……」と口を尖らせる歴史ファンもいれば、「《古琉球》時代の史料の空白は、侵攻後の島津によるものだろう」と腕を組む研究者もいます。

 

では、《左三ツ巴紋》の時代の風景を、限られた史料から紹介しましょう。

 

例えば……。

 

「護佐丸・阿麻和利の乱」の2年前、1456年に久米島に漂着した朝鮮人が帰国後、首里グスクについて、次のように報告しています。

 

王城は三層。外城に倉庫と厩。中城に侍衛軍二百余、内城に三層閣、王は中層に居り、侍女百余人。
軍士は、鉄を以て人面をつくり、面上に着く。形は仮面の如し。鉄を以て両角を作り、その状、鹿の角のごとく、金銀をほどこし、鉄を以て行縢(むかばき)をつくり、その両脚に束ぬ。
侍衛の軍士、歌をうたう。曲節農歌のごとし。
常に大小二刀を佩(お)ぶ。飲食起居にも身より離さず。
弓箭、甲冑・刀剣の形成、一に日本の如し、死を軽んじ、進むことを知って退くことを知らず。

 

えっ、むかしの日本と変わらないんじゃないの?……という声が聞こえてきそうです。

 

鉄を以て人面をつくり、面上に着く。形は仮面の如し。鉄を以て両角を作り、その状、鹿の角のごとく、金銀をほどこし、鉄を以て行縢をつくり、その両脚に束ぬ……などは、日本中世の兜や鉄の脛当てと同じです。

 

歴史小説家・司馬遼太郎も『街道をゆく~沖縄・先島への道』のなかで、次の文章を記しています。

 

「琉球は尚真王の刀狩り以前は、日本人とおなじ武装をしていた。甲冑も刀剣も日本式のもので、平服だけが袖が広く、日本の道服に似ている、というぐらいが、一見した程度の日琉のちがいとされている」

 

あれ?…琉球王国の正装というか、古来のファッションというと、なんか中国風というか、日本とはだいぶ違う感じだけど……という声が、また聞こえてきそうです。

 

実は、いわゆる〈琉球王国風〉の衣装は、「嘉靖の栄華」を築いた尚真の時代から……といわれています。

 

尚真は、「嘉靖の栄華」の拠り所である《進貢貿易》という特権を与えてくれた明国に対して、正座をするような外交スタンスで臨んでいたと思われます。

 

そんな尚真ですから、〈第一尚氏〉の《倭寇の匂い》を完全に払拭し、中国風にしたかったのでしょう。

 

明国を大いに苦悩させていたものが、ほかならぬ倭寇だったのですからね。

 

尚真は、依然として各地に割拠していた按司たちを首里に集め、中央集権を推し進める一方、衣装改革も断行し、冠の色や簪の材質で身分・地位を示すようにした……といわれています。

 

尚真は、按司たちから〈第一尚氏〉時代の匂いを消し去る努力をし、関連は不明ですが、刀さえも取り上げたともいわれています。

 

《左三ツ巴紋》の時代……伊波普猷のいう「昔大和世」は、尚真によって終止符が打たれたのではないか……と、私は推察しています。

 

しかし、受け継いでしまった家紋は、唯一、消し去るわけにはいかなかったようです。

 

もしかしたら、ノロたちが、昔から、この《左三ツ巴紋》を異常に推戴し続けていたために、神女組織を確立するためにも消却できなかった……など、思わぬ他の理由もあったかもしれません。

 

水戸黄門の印籠に刻まれた徳川家の葵……のようにですね。

 

 蟹青年は、スタジオから出てきたマスターを、拍手で迎えた。

 

「いやぁ、面白かったです!」

 

マスターは、ディレクター兼技術さんから手渡された「さんぴん茶」缶を開けながら、ありがとう……と、蟹青年に返事をした。

 

「聞いていて、ふと思ったんですが。……ねぇ、マスター、三ツ巴の巴の形って、勾玉に似てません?」

 

マスターは、お茶を口に含んだ後、そうだねぇ……と、とりあえず答えた。

 

蟹青年は、うれしそうにうなずくと、

 

「豪族のことを、按司(あんじ)のほかに、ガーラとも、沖縄ではいいましたよね。頭目(かしら)が語源だっていうハナシですけど」

 

「ん?……そうだけど、なにが言いたいんだい?」

 

「沖縄では、勾玉のことを、ガーラ玉……っていうでしょう。《左三ツ巴紋》を背にしたガーラが、ノロなんかに配った巴紋の玉だから、ガーラ玉って言うようになったんじゃないかなぁ」

 

ちょうど、お茶を口元に運んでいたマスターは、カニのように泡を吹き出しそうになった。

 

しかし、それは、けっして馬鹿げていると思ったからではなかった。

 

(続く)

 

*写真は、左三ツ巴紋。クリックすると拡大します。

 

*「関連リンク」は、日明貿易船旗。現物が今年、浦添博物館で展示されました。

 

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、地元日刊紙が05年に発刊した別冊特別号(タブロイド判)の、いわば《原型》にもあたります。第1稿が完結して歳月がだいぶ経過していますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナー(ぼちぼち)連載していきます。
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第5回 『港川人』発掘者の秘めた情熱

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浜崎あゆみ似の学生が『純喫茶うちなーたいむ』を再訪してから、半月後のこと……。

 

あの、ナンチャンに似た、蟹を連想させる顔立ちの男子学生が、ひょっこり一人で現れた。

 

再会は、おおいに盛り上がった。

 

思い出話や、その後のメンバーたちのエピソードを一頻り披露したところで、蟹青年は真顔になった。

 

「実はマスター、これをみつけたんですよ!」

 

そう言いながらショルダーバックから取り出したのは、ある航空会社の機内誌だった。

 

カコちゃんが先にそれを受け取ると、
「だいぶ、発行日が昔ね」
表紙を見て呟き、マスターに手渡した。

 

「このあいだ沖縄に来たとき、飛行機のなかで最新号を読んで、すっかりファンになったんです。で、国立国会図書館で、創刊号からチェックしてみたら、マスターのエッセーが載ってるじゃないですか!……さっそく航空会社へ行って、一部譲ってもらってきたんですよ」

 

マスターが書いた一文は、『牧港人を発掘した伝説の男 大山盛保』というタイトルだ。

 

蟹青年は、泡を吹き出さんばかりの表情で続けた。

 

「……いやぁ、考古学の素人が、港川人(約1万8000年前の後期旧石器時代人)の骨を掘り当てるまでの日々、感動しました。すさまじいまでの気迫というか、情熱があったんですねぇ!……学界も当初、素人なんか、全然相手にしてくれなかったんですからねぇ!」

 

「しかし、わざわざ東京から、この古い雑誌を持って……」

 

マスターがうれしそうに応えた。

 

「マスターにぜひ聞きたいことがあったんですよ。この、大山盛保(1921年生まれ・中城村出身・故人)という発掘者のことです。戦前にカナダへ移住していた……って書いてあるじゃないですか。若いときに故郷にいなかった人が、どうしてここまで港川人の発掘にこだわれたのかなぁ……と思ったんです。自分は、八王子(東京都の郊外)で生まれ育ったんですが、そこまで、故郷に執着しないなぁ」

 

「さすがに、ジャーナリスト志望ですね。目の付けどころが違う」

 

マスターの言葉に、蟹青年は一瞬、小さな目をパチリと広げると、ポッ……と赤くなって照れた。

 

「おっしゃるとおり、大山さんは移民でした。戦前にカナダへ移住し、第2次世界大戦が勃発すると財産をすべて没収され、日系人収容所に連行されました。そこで、沖縄戦の惨状の噂を聞いたんですよ。本人いわく、いてもたってもいられない気持ちになった……そうです」

 

カコちゃんが、すっと言葉を重ねた。

 

「私の親戚にも、戦前、海外に移民した人がいるんですけど、故郷は、心の拠り所だったそうですよ」

 

「心の、拠り所?」

 

「そう。……だから、《移民送金》っていうんだけれど、自分たちこそ異国でとっても辛い暮らしをしているくせに、歯を食いしばってお金を貯めて、沖縄の家族に送っていたの。戦前は、沖縄中の《移民送金》の総額が、県税の倍にものぼっていたそうよ」

 

「ふ~ん」

 

腕を組む蟹青年に、マスターが再び口を開いた。

 

「大山さんは、やっとの思いで帰国し、〈鉄の暴風〉が吹き抜けた故郷を眺めたとき、『あぁ、沖縄は、なにもかも失ってしまった。なんとか元気づけなければ!』と痛感したそうです。そこで、英語力を生かし、通訳を皮切りに、住宅公社の初代総支配人に就任しました。そして、ウチナーンチュと米軍の間に入って、衣食住の〈住〉の復興に尽力したんです」

 

「ほんとに、考古学とは関係ない仕事をしていたんですね」

 

「……こんなエピソードがあるんですよ。那覇港の港湾作業員の居住区を確保する仕事に携わったときのことです。その居住地区の地名を決めるときでした。大山さんは米軍に、戦前からの地名である〈山下町〉を提案しました。ところが、『ノー!ヤマシタ!』と、烈火のごとく怒鳴られました。日本軍のシンガポール攻略の司令官(山下奉文)を想起させたからです」

 

「へ~え。それで、どうしたんですか?」

 

「その上官は、新しい地名に、アメリカの軍人か政治家の名前をつけかねない気配でした。それでは、沖縄らしさが全く表れない地名になってしまいます。少しでも、沖縄らしさを残せないか。大山さんは思案しました。しかし、日本語の名前は、とても認めてくれそうにありません。そこで、必死になって思い浮かべた名前が、ペリーだったのです」

 

カコちゃんがまた、口添えをした。

 

「年配の方々は、いまでも、那覇市の山下町のあたりを、ペリー……って呼んでいるんですよ」

 

「ペリー提督は、19世紀に〈琉米和親条約〉を締結している、沖縄と関わりのある歴史的人物です。大山さんは、ほんの少しですが、新しい地名を、沖縄側に引き寄せたんですよ。大山さんの提案がなければ、新しい地名は、マッカーサーかなんかになっていたかもしれません」

 

「そんな駆け引きがあったのかぁ……」

 

「港川人発掘も同じ思いからなんです。考古学の素人だった大山さんが発掘に情熱を注いだのは、沖縄はものすごく古い歴史を持っているんだ!……ということを実証し、ウチナーンチュに、なんとしても自信を持ってもらいたかったからなんですよ」

 

蟹青年は、最終の路線バスで那覇の宿に戻っていった。

 

玄関で、マスターとカコちゃんに向けた蟹青年の別れの言葉は、

 

「あした、ペリーに行ってみます!……自分、沖縄で、記者になりたくなってきました」

 

だった。

 

(続く)

 

*写真は、港川人の発掘現場(1968年・具志頭村港川・OK給油所提供)

 

*港川人(約1万8000年前の後期旧石器時代人)……具志頭村港川の石灰岩採石場の深い裂け目で、大山盛保氏により1968年に発掘された。これまでに9体分の骨が確認されている。その骨は、『旧石器人の容姿を、体型から顔立ちにいたるまで具体的に説明できる、日本で初めて出土した化石人骨』と高く評価されている。骨から想像するその姿は、身長が男性153センチ、女性が143センチと小柄。やや胴長、腕は細めだが、手が大きくてたくましい。頭骨は現代人よりやや大きめだが、脳は現代日本人の8~9割と小さく、狭い額がやや後ろに傾いている。港川人はどこから来てどこへ行ったのか。北上し、縄文人の祖先になったとする説もある。

 

*『沖縄史を語るカフェへようこそ~純喫茶うちなーたいむ』は、立教大学の「沖縄集中講座」の参考資料として企画したものです。内容は異なりますが、05年に地元紙が発行した別刷特別号(タブロイド判)の、いわば《原本》にもあたります。第1稿を書き上げてから歳月を経ていますので、現在に即してリライトし、ヨ~ンナ~(ぼちぼち)連載していきます。



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