読むビタミン剤・第5錠 最後の「古琉球」王が伝える気迫

カテゴリー: 沖縄発奮物語~ビタミンO!kinawa
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京都に、「古琉球」の竜が、いまも棲息しています。

 

その竜が、人々の前に姿を現すのは、日本の夏の風物詩・祇園祭のときだけ。古都の街を巡行する山鉾のひとつ、「黒主山」の「前掛け」だからです。染織関係の美術家たちは、その竜を「正面向き五爪竜文様綴錦」と呼んでいます。

 

およそ400年前、薩摩(島津)による琉球侵入という琉日戦争が起きました。

 

有名な「関ヶ原の戦い」の9年後にあたる1609年の出来事です。研究者のなかには、豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵を前段に、「もうひとつの慶長の役」ととらえる人もいます。

 

薩摩軍は、山川港から出陣したおよそ3000兵。今帰仁城、首里城をたちまち落とし、琉球国王の尚寧はじめ重臣たちを捕らえて、鹿児島へ凱旋しました。

 

その結果、琉球王国は、中継貿易で栄華を誇った独立自尊の時代「古琉球」に終止符を打ち、中国に朝貢しながらも薩摩藩の附庸という「近世」を歩むことになりました。

 

捕虜として連行された尚寧は、鹿児島からさらに駿府、江戸まで連れて行かれ、徳川家康、秀忠に謁見しています。

 

この旅路で、尚寧は、束の間でしたが、安息の時間も得ました。袋中(たいちゅう)上人と京都で再会し、旧交を温めたのです。

 

袋中上人とは、磐城国(福島県いわき市西郷町)で生を受けた、浄土宗の僧です。琉日戦争の6年前、52歳にして明国への渡海を志し、琉球へ漂着。桂林寺(現・那覇商業高校付近)を建てて住持となり、尚寧や儀間真常(琉球史上最高の産業功労者)らと親交を深めたのでした。

 

袋中上人が、帰国後の1608年に書き上げた『琉球神道記』は、源為朝の琉球渡来に触れるなど、「古琉球」の姿を後世に伝える第一級の史料として高く評価されています。

 

尚寧が、袋中上人との再会を心の糧としたことを物語る絵が残っています。

 

「袋中上人像」です。

 

江戸から薩摩へ戻り、帰国を待つ身の尚寧が自ら描いた人物画です。

 

人を描くと、描いている本人にどこか似てしまう……といわれます。それを信じるならば、袋中上人の表情には、奮い立つようなすさまじい気迫がみなぎっています。特に、眼力の強さ。それは、「やすやすと祖国を敗戦に導いてしまった傷心の王」という尚寧に対する既存のイメージを覆すほどの迫力です。

 

その気迫は、袋中上人が再会の際に励ました言葉のなせる業だったのでしょうか。そして、尚寧は、帰国するにあたり、なにか大きなメッセージをその人物画に込めて、袋中上人に贈ったのでしょうか。描いたタイミングが、島津氏への服属を誓約した「起請文」を記した時期と重なります。

 

袋中上人はその後、「袋中上人像」を含めて、尚寧から贈られた数々の宝物を、三条大橋のほとりに建てた檀王法林寺で現代に遺しました。

 

その宝物群のなかに、「古琉球」の竜がいました。原型は、明国の万歴帝から賜った琉球国王の「第一等正装竜衣」と推察されています。

 

そして、その竜衣が後年、檀家を通して「黒主山」に寄付され、山鉾の前掛けとして使われるようになったのです。

 

そんな背景を知った随筆家の故・岡部伊都子さんは、「尚寧王は、袋中上人の思いを重ねて、祇園祭の竜となっていらした」と『京都新聞』にコメントを寄せています。

 

「沖縄戦」で焼け野原になった沖縄には、東アジアを舞台に「大交易時代」を築いた「古琉球」の面影が、あまり残っていません。

 

その時代の残照は、意外なことに、京都の人々の手で優しく守られていたのです。
(了)

 

◇「黒主山」の前掛けは、「正面向き五爪竜文様綴錦」が傷んだ後、「横向き四爪竜文様綴錦」(こちらも琉球国王の「第一等正装竜衣」の一部と推察)に替わり、現在は「正面向き五爪竜文様綴錦」のレプリカが飾られています。

 

*『ビタミンO!kinawa』のシーズンⅠ(全10話)は、『沖縄発奮物語』です。薩摩侵入(慶長の役)、琉球処分、沖縄戦、27年間に及ぶ米軍統治時代などの「苦境」に立ち向かってきたウチナーンチュ(沖縄人)の志と底力をご紹介します。

 

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